ASDのわたしが「相談だと認識していたもの」とは
ASDのわたしは気が付けば、“本当に困っていることを他人に相談する”という習慣が全く身に付いていませんでした。その状態と言うのものは
どんなに辛いことがあっても、どんなに不安になっていたとしても、その悩みを常にひとりで抱え、わたし自身がわたし自身に言い聞かせそして納得をさせ、たった一人で解決したと「思い込んだ状態」に持っていくことで、まるで何事もなかったかのように振る舞う
この様なものでした。とにかく心身が病む程の困り事があったとしても
- 誰かに聞いてもらいたいという意識がない
- 今抱えている悩みを自分以外の人に話し、助言をもらいたいとも思わない
- 助けて欲しいということを伝えたい、という以前に「助けて」という感覚すらない
というものでした。ただ、そこまで深刻では無い正直どうでもいいような、ちょっとしんどかったけど笑い話に出来るような事を話しては「これどう思う?!」と軽く問いかける様な、ただ単なる会話のネタにしてしまえる様な事は話せたりするのです。
そうやって「事後報告」として話す事が相談なんだと、ずっと思っていたのです
ただ、そうではないところにあった一人で抱えている深刻な問題、本当に心底辛くて心身を病む程のものであって、他人に話すには勇気が必要な悩み事、というものは大体において「自己完結」が普通の状態でした。もちろん「自己完結」の状態というものは、問題が解決していた訳ではありませんでした。本当は、心身を病む程の悩みや問題の方が優先して相談するべきものです。そうだとしてもASDのわたしにとっては
- 優先順位が分かりにくい
- 子供の頃から困りごとを話したとしても、少数派だからこそ理解されなかった状況があり過ぎた
この様な特性上のものと、経験があってしまったが故に、“どのような悩みを優先して他人に相談し、助言をもらい、解決に導くことをしていく事が必要なのか”という判断が出来なくなってしまっていたのです。
本当の意味での「相談」というものが分からなくなってしまった結果、自分ひとりで解決策を導き出そうと四苦八苦し、その後に解決出来なかったとしても、なんとかやり過ごせるように無理矢理に自分自身に言い聞かせ“洗脳する事”が解決だと、そう信じた状態に持っていってしまっているだけのものだったのです。
相談というものを間違った認識で捉えていたわたしは常に、本当の意味で解決していない問題から生じるストレスを抱え続け、わたし自身を苦しめる状態がありました。それは、問題が無くなったように「演じていた」だけの状態で、根本的には何も変わっていなかったからです。
「相談する」という事を諦めてしまうその原因とは
相談するという認識が違う所にあって、結果的にそのことを諦めてしまっていた状態にあったのにはもちろん、原因があります。正直その原因はこれだ、とは言い切れない程ASDのわたしには複雑に存在するとは思いますが、一つ挙げられるとすればそれは先程にもお伝えした
子供の頃から大人になるまでずっと、ASDがどういう人たちなのかを理解されない環境にいた
というものは大きかったと思います。ASDの困り事というものは独特で、多数派の人に話しても理解されないことが殆どです。繰り返し繰り返しそういった経験を重ねてしまえば、「相談する」ということ自体を無意識的に諦め、自分にとって楽な捉え方に変えて認識してしまったのだと思います。ただそれではASDにとっても、ASDと関係している人にとっても、望ましい結果には至りません。
どうして多数派の人達の中で、ASD特有の困り事は理解され難いのか
ASDの困り事や実際に心底助けて欲しいと感じていることを、ASDに理解のない人達、またはASDに対して差別的な意識のある人、これが常識だと信じて疑わない人に話したとしても、その殆どが“相談しても無駄だった”という明らかに何の解決にもならない上に、更に心に傷を負う結果になるだけの現実がASDには返ってきたりします。その内容の中には
- 努力が足りない
- そんな事は誰にでもある
- 理屈っぽい
そうやってあっさりと片付けられては、我慢するしか無いという結果が解決だと感じさせられたりするのです。それがどうしてなのかというと
多数派の認識が先にあって、その視点から答えられてしまう
ASD自身がASDだという自覚がないことから、ASDの知識がない人、またはASDに理解のない人を選んで相談してしまった
という状況があるからだと思っています。ASDが抱える“理解され難い本当の困りごと”と言うものは、努力したってどうにもならない“感覚的なもの”や、理屈では説明出来ない“ASDの特性があってのもの”というものからだったりします。しかも、特性上とても真面目なASDの人の多くは、すでに自分が抱える困り事や悩みに対して、“相談しようと思った時にはすでに「努力」はもう十分してきた”ということもあります。
それでも出来ないからこそ上手くやっていく為にはどうしたらいいのかの「手段」があったら教えてほしい、ということをASDは上手く言語化出来ない、ということもあって理解され難いという事が生まれたりもします
そしてもう一つ、付け加えるとすれば
相手の顔色や場の空気を読み過ぎて本心を伝えられなかった
というものです。ASDは相手に対してネガティブな印象を勝手に持ってしまったりします。そこにはもともと“不安要素が強い”、という特性も関係していると思います。ほんの少しでも相手の顔が曇って見えたり、なんとなくでも口調がキツく感じられたりすると、何も言えなくなり、本当に必要な情報を伝えられないままになったりもするからです。
相談する事を諦めずに、勇気を出して話したASDに対して出来る事
こういった状況をASD自身が乗り越えて相談するという事は、かなり勇気の要る事ですが、ASD自身もこれは乗り越えなくてはいけない事なんだと取り組む事で、解決に導かれることはあります。そうやってASDが勇気を持って行動に移し、相談した時にはどうか
じっくりと話を最後まで聞く、という「待つ時間」
というものを持ってもらえたらと思っています。何か言いたくなったとしても話が終わったと本人が納得した状態になるまで「聞くに徹する」という姿勢で向き合ってもらえれば、ASDが本当に言いたかった事が見えてくるからです。
「相談する」という事を当たり前に理解する事が難しい
ここからは「ASDと定型発達の人達との理解の仕方の違い」というものをお伝えしていきたいと思います。ASDと一括りに言われていても、一人一人に細かな違いがあります。ですので、全てのASDに絶対的に共通して言える事とは思いませんが、ASDであるわたし自身、そして同じくASDである息子、その他のASDの人達をこれまでに見てきて言えるのは
何気ない日常から無意識的に物事に対しての理解が生まれ、自分に落とし込むという事は難しい
というものです。そこには
「他人に相談するって、具体的にどんな行動や発言が“相談’という事になるの…?」
というものもそうなのです。例えば今回の「相談」ということについても、子供の頃から友達に、または親や先生に、自分でなくても他の子が話をして解決に導くという姿を客観的に見ては「相談とはこういうもの」ということを、敢えて意識することなく身に付いていくものだと思います。ただ、この自然な流れのようなものがASDにとってはとても難しいのです。いつまで経っても
「他人に相談するって、具体的にどんな行動や発言が“相談”という事になるの…?」
というような感覚でいたりします。多数派の人達が子供の頃から日常的に取り入れていく物事への理解、その理解したものを応用しながら行動に移す、というような事が、ASDにとっては当たり前にできないどころか、自分だけの力では無理に近い部分だったします。ではASDはどのように理解していくかというと
相談とはこういうもので、こういった内容を人に話し、意見を述べ合ったり、意見を述べてもらったりして考えること、というような具体的であり、そして本人が納得できる説明をしてもらう事と、ASDが自ら取り組むその説明に伴った実践、この2つがあって初めて自分に落とし込みができ、理解していくのです
わたしの場合は、子供の頃から相談するということ自体よくわかってなかった、その上、いろんな経験から認知の歪みが強くなってしまっていて、本当の意味での「相談する」ということからとてもかけ離れた状態にあったと思います。
ASDにとって「相談するという習慣」がどうして重要なのか
ASDの困り事や悩みというものは
- 感覚過敏から生じるもの
- コミュニケーションの取り方がASD独特のものだからこそ、多数派の人たちに理解してもらい難い
- 興味関心への偏り、こだわりが強すぎるからこそ、興味のない事に関して、こだわっている事に関しては努力ではどうにもコントロールが難しい
というものの中から発生したりします。ただ、こういったASDの特性からくる困り事や悩みというものは
多数派の人たちの中で生きているからこそ発生するものもあると思っています
本当はASDだとしても、そのままの自分で生きていける環境があればいいだけなのです。でもその事が難しい状況があるからこそ、ASDにある特性上の悩みが生まれてしまう、というのも現実だと思っています。
ただ、時代は変わってきています。変わって来たとわたし自身が実感している事の中には
- ASDとはどういう特性を持ち合わせた人達なのか、という“情報”
- ASDを理解したいと思い、行動してくれている人達の増加
- ASD当事者の人、またはその傾向がある人の中で、自分はASDの特性があると自覚した上で、自分自身への知識と受け入れの姿勢を持っている人も増えてきている
というものです。この事実は、わたしが子供の頃には全く無かったものです。時代が変わった今は、わたしのASDの息子をサポートしてくれる主治医の先生や放課後等デイサービスのスタッフの方々、学校の先生方の前向きな理解や受け入れ体制、そして会社の中でも、定型発達の上司の方がASDを理解しようと学びを得てくれようとしている、そう言った人たちが実際に存在する世の中になってきています。この事実がASDにとってはとても救いになり、有難いことだという事は、わたし自身が身をもって感じています。
もちろんそうだとしても、ASDにとって生き辛さが無くなるわけではありません。まだまだ多数派の人たちの中で、受け入れられない、理解されない出来事を抱えて生きていかなくてはいけない状況は多くあると思います。だからこそ、今のASDの子供たちや大人のASDにとって、他人には理解され難いと感じるような事こそ一人で抱えず「相談する」ということは重要だと感じています。本当に困っていることを相談し、解決に導くことをするということは
本質的な問題が何なのかもわからない状態が日常になり、その上ずっと誰にも相談できないまま一人で抱え込んでいると、ある日突然、思わぬ大きなストレスに襲われ、一瞬にしてメンタルヘルスが壊れてしまう最悪な状況に陥ってしまうこともあると思います。最悪な状況にまでいっていないにしても、その過程では日々のストレスから、関係している人達に怒りなどの感情で発散してしまうこともあるかもしれません。こういったことを防ぐという意味でも、そしてASDにとって悲しく辛い時間を少しでも減らしていくためにも
言語化することが難しければ、まずはその事実を理解してもらってから話すことをしてみたり、感覚過敏やASDにある特性を理解してくれている、または受け入れてくれる人を選んで相談するということを習慣化して欲しいと思っています
「相談するという習慣」が身につけば、ASDの自分として生きていて、生き辛さがあったとしても乗り越えていけます。そして逆に、ASD側にも、相談を受けられるような心の余裕が生まれれば、ASDと関係している人とお互いに助け合う、という関係性も結果的に築いていけると思っています。子供の頃に教えてもらった「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」これをもう一度思い出し、自分にとってちっぽけなことだと思っていたとしても話してみる、このことをスモールテップでいいので実践してみて欲しいと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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