ASD トラブルの原因となる「切り替えの困難さ」とは

発達障害

強いこだわりが自分自身を見失わせる

ASDの人達は、もちろん私自身も含めどうして対人関係のトラブルが目立ってあってしまうのでしょうか。目立ってあるとしてもそこには、ただ単に性格上のものだけではないということを、私はASDについて知識を得るまで考えたこともありませんでした。というのも実際、私が子供の頃からずっと親に言われ続けてきたのは

  • ものすごく頑固な子
  • 融通が利かない

というもので、私自身の性格に問題があるんだと信じて疑っていなかったからです。ただ、そう言われてしまうのも納得はしていました。というのも子供の頃の私にあった、特にはっきりと態度に出ていたものの中に、周囲がどうでもいいと思う様なことでも意地になってしまい、自分以外の人たちに合わせるということが難しかったり、相手の意見を受け入れることなくひたすら自分の考えを譲らなかったり、というよりもとにかく理解して欲しいと頑なに執着したりと、そんな一面があったからなのです。ただ、子供の頃の私は何故自分が頑固だと言われてしまうほどに小さなことに執着してしまうのか、融通を利かすなんてどうやったらいいのか、そんなわからない事だらけの中で周囲からは度々呆れられては悲しい思いをする、という事の繰り返しだったように思います。

それが大人になるにつれて、辛い思いをすることを無意識的に避けていたのか、逆に周囲に合わせ過ぎてしまっては疲れるという、どちらにしてもよくわからないストレスを抱えた自分のまま、解決の糸口も見つけられないままの苦しい状態になっていました。ただ今思えば、頑固だと言われた時、融通が効かない時、我慢して周囲に合わせてしまっている時、この全てに共通してあったものがあります。それがASDの特性からくる

“強いこだわり”

だったのです。その強いこだわりというものはASDにしかないものだからこそ、多数派の人達にとってはどうでもいいようなところがどうでもよくない、細かな部分に強くこだわるからこそ、理解してもらえなかったのです。

ASDが無意識的に強くこだわってしまっている時の状態というものは、コントロールが大変困難です。コントロールができないとなると自分自身を見失います。となれば結果的に、何にそんなにこだわる必要があるのか、どうして相手との関係性が悪化するほど強く執着してしまっているのか、という状態の自分を俯瞰できなくなってしまうのです。

こだわりに囚われることで起こるトラブルとは

ASDに起こるトラブルの原因のほとんどは、特性にある“強いこだわり”だと言っても過言ではないと思っています。それがどうしてなのかと言うと

こだわる対象が細かく強すぎるからこそ、いつの間にか自分の考えに固執しその結果、自分の視点から相手の視点へ切り替えることが難しくなってしまうからなのです。

無意識的にこだわりに囚われてしまうと、気がつけば相手と口論になっているということもあります。実際に私のASDの息子に起こるトラブルを見ていてもそうなのです。例えば、放デイ(放課後等デイサービス)の送迎時、一緒に乗車する友達と助手席に乗るのは交代制だというルールがあった時に、そのお友達が

「今日は車酔いしそうだから、前に乗せてね。」

と言ったとします。そういった時に息子は、相手の状況よりも先ず何よりも自分の中にある“決められたルール”にこだわってしまいます。

「どうして?昨日も助手席に乗ったでしょ。だから今日は僕が前だよ。」

そうやって相手とやり取りをしているうちに、いつの間にか癇癪一歩手前くらいにまでムキになってはコミュニケーション自体が取れなくなってしまう程になります。

(たった15分程の距離を二日続けて助手席に乗せてあげるくらいいいじゃないか…。しかも車酔いしそうだという理由もあるのに、どうしてそんなに自分の考えを譲らないのか…。)

冷静に見ている周囲の人たちからすれば、息子はただの困ったちゃんに過ぎないと思います。それでもその場にいる大人が放デイのスタッフの方であれば“こだわりに囚われている”という理解があるので落ち着いて話をし、対応してくれます。ただ、ASDに理解のない人たちの間では息子は責められる一方だと思います。

息子も、そして私自身もそうですが、決して相手を困らせてやろうなどという意識は全くないのです。こだわりに囚われるからこそ自分だけの世界から出られない、という感じなのです。出るのが難しすぎるからこそ自分の視点から相手の視点に切り替えられない、そうなると一方的に自分の考えをただぶつけてしまうというようなトラブルに発展しやすくなってしまうのです。

トラブルの原因となる「切り替えの困難さ」とどう付き合っていくのか

ASDにある「切り替えの困難さ」は生きづらさの原因でもあると思っています。客観的に息子を見ていても大変そうだと辛くなることもあります。そして実際、私自身も苦しい部分です。

自分の視点から相手の視点に切り替えることが難しいからこそ、いつの間にか相手側に「もういいよ…。」と呆れられる、となるとまたその投げやりな言い方に引っかかり、更にこだわり自体にこだわってしまった結果、相手にどうしてもわからせようとする。「うん、そうだね…。」と言わすまでがゴールのただの独りよがりで残念なレースになっていることにも気づかない。実はこういった「切り替えの困難さ」から引き起こされるトラブルは相手もそうですが、ASDにとっても辛いものなのです。それがどうしてなのかと言うと

その瞬間の自分に気づけないからなのです

どうしてあんなにムキになっていたのか、大したことでもなかったのにと後で気付いたとしても、自分自身にうんざりしては後悔するばかりです。本当にそれで自分は満足だったのか、本当にそれで相手と上手くコミュニケーションが取れたのか、そうやって我に返った瞬間のなんとも言えない苦しさから酷く落ち込み、自分は何てダメな人間なんだと責めては自己肯定感を下げていってしまいます。逆に気づかなかったとしても、いつの間にかどんどんと人が離れていっては孤独を感じるような状況になっている、ということもあると思います。

気がつけば何かと対人関係におい、て何故かトラブルになってしまう。そうやって「何故か」とわからないまま放置してしまうと同じことを繰り返してしまいます。自分がASDであるのであれば、またはその傾向が強いのであれば

トラブルの原因は性格上のものだけではない、ASDの特性から来ているものもあると、まずは“知ること”だと思っています。それは被害者意識を持つものとは違います。自分を受け入れる、ということです。そしてASDと関係している人たちは特性を理解した上で、ASD自身が何に強くこだわってしまっているのかを気づかせてあげる、という内容の声掛けを落ち着いて伝えてみて欲しいと思っています。

ただ注意していただきたいのは“ASDにあるこだわりが悪い”というものではないと言うことです。ASDにとっては必要だからこそ、こだわっている。違う場面ではその強いこだわりがあるからこそ人の役に立てたり、逆にASDにとって自分らしく生きられるという、前向きな効果もたくさんあります。

ですのでここで伝えたかったのは、こだわりを無くしていこう、と言うものではなく。

本当にその場の状況で必要なこだわりなのかどうかの判断がつきにくい時がある

と言うことを認識しておくということなのです。実際にそうやってASDは自分と向き合うことで、変えていける部分というものは生まれます。ASDの子供達にとっては難しいことかも知れません。それでも、私は息子に対して少しづつでも自分を振り返られるような声掛けや、こだわりに関して話をしたりしています。もちろん上手く伝えられる時ばかりではありませんが、繰り返し練習のようなことをしていくという行動は必要だと思っています。それはいつか息子の生きやすさに繋がるのではないかと思っているからです。

こういったことはASDの大人であれば、子供たちよりかは考える力が高いからこそ「切り替えの困難さ」を知るということだけで、変えていけます。このことは私自身も自覚を持ち、取り組んでいる最中でもあります。自分を振り返ったり客観的に見ることの繰り返しというものは、自分を責めるだけのものではないのです。そうやって前向きに捉えられればいつか、自分の視点も相手の視点も違う見え方が出来ると思っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。

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