雑談ができない?!
実を言うとわたしは、4人以上が集まった場での雑談を楽しと感じたことがありません。というよりも、楽しめないという以前に、例えばお昼休憩の場で、または学校であれば休み時間、その状況で数人が集まった時、どうして必然的にその場にいる人が輪になって一緒に会話をしましょうという空気感になるのかが全く理解できませでした。何の約束もなく何となく近くにお互いが居る、というだけなのに何となく一人の世界に入ることを禁じられているような。いつもどこか窮屈で、一人になりたいと思いながらも、自分の思いはさておき、あれがしたいこれがしたいもさておき、その場の雑談と言われている場にただいる、というだけのものでした。
上手く会話に参加できない、楽しいと思えない、こういった自分はずっと他の人に比べ欠陥があるのだと思っていました。ただ、それは人と比べて欠如しているものではなく、そもそも対人コミュニケーションが苦手で、常に一人の方がいいという感覚の持ち主だということ。そして更に雑談を苦手とする部分に関係している特性を挙げるとすれば
・シングルフォーカス特性「注意、興味、関心を向けられる対象が、一度に一つと限られている」
・シングルレイヤー思考特性「同時的、重層的な思考が苦手、あるいはできない」
・知覚ハイコントラスト「「白か黒か」のような極端な感じ方や考え方」
米田衆介(2011)『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?ー大人の発達障害を考える』講談社.91,115
こういった具体的な特性があったからなのです。自分なりに頑張ってはみたものの、いつまで経っても上手くできなかったのは努力の問題ではなく、必然的にそういう自分になっていただけだったのです。ただ、そうだと自覚する前のわたしは、かなりもがいていたように思います。ぽんぽんとテンポ良く流れるように変化していく話題、その話題は答えを見出さないまま曖昧に動いていく。飛び交う様々な話題の合間に、阿吽の呼吸法でも身につけているかのような職人技でタイミングよく発言する人。何気ない雑談だとしても、わたしにとってはその場にいる人全員が雑談のプロフェッショナルに見えました。
そんな中、わたしも雑談に参加している以上、何とかいいタイミングで、何かしらの発言をせねばと試みるものの、どの瞬間に挟み込めばいいのかが全くわからない。わからないまま変な汗をかきつつ、結局は耳を傾けるだけ。それでもせめて相槌だけはオーバー目にとって参加の意義を示そうとひたすら頑張り続けるのが、わたしにとっての雑談でした。
雑談に求めるものの違いとは
わたしは雑談の場にいてもう一つ、気づいていたことがありました。それは
ある程度の人数が集まった場での雑談を楽しめる人というのは、相手の話に対しての返しやそのテンポが上手いことに加え、表情も豊かだということです。
自然とみんなんと協調的にやりながら、にこやかに、またはとても関心があると言わんばかりの驚いた表情から、言語化しなくともその思いを相手に伝えられる。ではわたしはどうか、そう自分を振り返ってみると、見事に怒っているかのような無表情です。実はこの無表情もASDに見られる特徴的なものだったとは、後々知ることになったのですが、どうやったら自然と表情を駆使して相手に気持ちを伝えるという高度な技ができるのかということも疑問でした。ただその表情や協調行動には、わたしが考える雑談に求めるものと、多数派の人が雑談に求めるものがそもそも違っていたからこそ、多数派の人にとってはその場に必要だと無意識的に理解していて、これまでの経験から、それこそ子供の頃から受け入れ、自然に使いこなしていたものだったのです。
ASDである少数派のわたしと、多数派の人が雑談に求めるものはどう違っているのか。このことに疑問を持ったわたしは、雑談に求めるものとは何のかを、研究結果が出ているものから調べてみました。そうすると、これが雑談を交わす最大のメリットだとそこに書かれていたのは
話し相手との親密度を高めるきっかけになること
というものでした。そのほかにも、雑談をすることで周りの人から好感を持たれる人になる、助け合える関係性を築いている、といったものでした。ここでわたしが一番に頭に浮かんだ言葉というのは
「そこっ?!」
です。事実、そんな高度な理由があるとは微塵も思っていませんでした。そこで、ASDのわたしが雑談に求めるものとは何なのかを考えてみた時に、まず頭に浮かんだものといえば、そもそも雑談の意味がわからない、そのもの自体に何も求めていない、というものでした。だとしても、それでは身も蓋もないので、もう少し掘り下げて考え、調べてみた時に出た答えというのが
ASDは話すことには必ず意味や目的があると考えている
というものでした。雑談そのものの「時間」や「相手との親密度」、「関係性を築きたい」、というものよりも、その場にいる人が話す内容、一語一句に意味を求め、それが自分にとって有益な情報かどうか、興味を持てる内容かどうかを常に考えている、というものだったのです。
流石にこういった思考だと、その場を楽しみ、親密度を高めようと努めている多数派の人にとっては、失礼極まりない心情だと言えるのかもしれません。もちろん多数派の人同士の雑談の中にも、社会に必要な知識や情報をとっている人もいると思います。だとしても少数派の人たちからすれば、「そのことが雑談における全てではなかったのか…」ということなのです。
ではどうしてASDは「雑談が苦手」だと周囲からも見られ、そして自分自身も感じてしまうのか。そこには、雑談においても通常のやり方やスタイルというものがあって、その通りにいく方が楽しい、それが正解だと信じて疑わない人が多数派を占めているからです。だからこそ、雑談の法則のようなものができ上がってしまい、そこに当てはまらない人たちが苦手意識を強くしてしまう、ということが起こるのです。少数派の人には少数派の人の雑談に求めるものがあって、それが単に多数派の人とは違っている。「雑談が苦手な人たち」ではなく「雑談よりも内容重視の会話をしたがる人たち」と捉えてもらえればわかりやすいかもしれません。
世界は「雑談サバイバル」
思い返せばわたしは学生の頃から「一匹狼」だと友達にふざけて言われていたことがあったのですが、今ではそのことにも納得です。そもそも群れの協調行動ができないわたしが、数人が集まって気楽に会話をする中に自然と溶けこんでいる姿なんて、想像すること自体に無理があります。更には、具体的な言葉で話してもらえないと意味を履き違えてしまう、というものまであるわたしには、どういう意味なのかわからないまま会話が進んでいくからこそ、ストレスになることも多かったのです。定型発達の人たちの言葉はざっくりしていることが多いのですが、それは多数派同士で分かり合えるからなのです。学校でも職場でも、雑談で溢れた世界はASDのわたしにとって
「雑談サバイバル」です。
ただ、全ての雑談においてサバイバルだとは言い切れない状況も実はあるのです。雑談を楽しめることも、そして雑談が好きだと思える場面もあります。それは、相手がわたし以外に一人しかいない、1対1の状況、そしてその相手が同じ少数派である場合です。もう少し厳密にいうと、診断の有無はあまり関係なく、同じ特性を持ったもの同士というものです。このような状況だと、シングルフォーカス、シングルレイヤー思考、知覚ハイコントラストという特性を、思う存分に発揮できるからこそ楽しめます。その上、条件が揃った場面に限っては、多数派の人たちが求めるものに近い感覚が生まれているとまで言えます。ただ、話の内容的にはやはり、基本的には情報交換、興味の有無、という意識は働いています。
雑談一つをとっても、多数派と少数派では意識の違いも共感するものも、求めるものも全く違っています。この事実からも
少数派の人たちは独自の文化を生きている、という視点は大事だと思っています。
ASDは内容自体に意味がないと感じさせられる雑談が苦手です。必要ないとも思っています。だとしても、雑談そのものは悪いものではありません。悪いものではないにも関わらず、ASDにとってそのこと自体にストレスを感じていたり、苦手意識が強まってしまうのは、特性に加え「その場の環境が適していなかった」ということなのです。多数派の人たちの価値観に基づいた制度や文化が浸透している社会の中では、そこからはみ出した人は目立ち、同じ意見や感覚の持ち主の数が多いか少ないかで、少ない側への理解がなされないこともあります。それは結果的に、お互いにとって生きにくい社会をつくっていっているようなものだと感じています。
ASDの人の中には子供の頃から「変わった子」と言われてきた人も多いです。わたしもその中の一人です。でもその変わった子が、変わった子のままで生きられるのが本当は一番幸せです。そのためにもまず、少数派の人たちのことを、理解はできなくてもそうなんだと知ってもらうことが必要だと感じています。知ってもらうことで社会が変われば、少数派だけではなく多数派の人が問題としていることにも、解決の道を見つけられるのではないかと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
[参考文献]
・横道 誠(2021) . 『みんな水の中ー「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に住んでいるのか』. 株式会社 医学書院
・米田衆介(2011)『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?ー大人の発達障害を考える』講談社.91,115
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