仲良くなってもとことん「丁寧語」
わたしは子供の頃はさほど気にならなかったことが、大人になってから「これは難しいぞ…。」そうやって意識してしまうようになったものがあります。それというのが
大人になってから出会った人に対して、どのタイミングで「丁寧語」から「タメ口」に変えたらいいのかがわからない
というものです。例えば幼馴染のように子供の頃から関係性が続いている、特に丁寧語を使ったことも、そもそもその必要性もないとわかっている人にははっきりと「タメ口」でOKだと、それくらいはわかります。わたしが難しいと感じていたのは、入り口が「丁寧語」スタートで始まる、大人になってから出会った人たちに、どのタイミングで「タメ口」に変換するのか、というところなのです。例えば会社で同じ位置にいる人、子供の習い事先や学校で出会った保護者の方、というような友達とまでは言えないにしても、お互いに気兼ねなく話せるほど仲良くなった人たちに関してです。
最初はもちろんお互いに「丁寧語」です。ただ、その後も何度も会う機会がある、その度にいろんなプライベートな話までできるようになってきた、中には連絡先まで交換するような関係性にまでになったとします。それでもわたしはとにかくずっと
仲良くなってもとことん「丁寧語」なのです
周りを観察してみると、気がつけばいつの間にかお互いにタメ口で話し合っている、というような人たちを見かけます。もちろん親密度はそれぞれにあると思いますが、わたしと同じ頃に出会って、同じくらいの時間を過ごしてきた人たちがそうなのです。ある程度の関係性が築かれてそうなるんだと、頭ではわかっていても、それでもわたしはいつまで経っても「丁寧語」から抜け出せないのです。
「丁寧語」から抜け出すために実践したこと
実はわたしには、大人になってから出会ってそして何故かお互いに気があって、いつの間にか友達のように仲良くなった人というのが少ないですが数人います。もう友達といってもいいと思える人に対して、既に「丁寧語」はある意味不自然だと感じているにも関わらず、それでも放っておけばわたしはずっと丁寧語です。逆に相手からすれば、こちら側がいつまで経っても丁寧語をやめないからこそやめられないというような、どこかずっと少しよそよそしい関係性を続けさせてしまっている、ということもあると思います。
だとしても相手にとっては、「丁寧語」か「タメ口」かなんてことがそれほど重要ではないからこそ、会話の途中には自然と「タメ口」を挟んで話してくれる瞬間もあったりします。実はわたしはその瞬間にものすごく敏感です。相手がタメ口になった瞬間、「今!この1回分はタメ口で返したほうが自然だ!」「タメ口がまずは一回分溜まったぞ!」こんなんことを考えながら、どストレートの瞬殺で「タメ口返し」をします。でもまたその後、相手が丁寧語に変わったらなるべくナチュラルに丁寧語に戻します。このように、わたしの頭の中では相手との会話を楽しみつつ
「今この瞬間は丁寧語かタメ口かっ?!」なんて、傍から見ればどうでもいいアンテナをビリビリと張り巡らせていたりするのです。
そんなことを毎回続ける中で、相手に気を使わせ続けるのも申し訳ないし(そう思っているだけかもしれませんが)、丁寧語ではないナチュラルな感じで話ができたらもっとお互いに楽だろう、そう思い始めることもあります。だとしても、そのタイミングがいつなのか自分ではわからない。
わからないのであればタメ口をやめたいと思った時のルールを作ってしまおう
そう思ったのです。ちなみにこのルールはわたしにとって毎回ものすごく勇気のいることなのですが、ちょっと頑張って実践していました。そのルールというのは、相手との会話がひと段落した瞬間を見て
「あの…。です、ます、やめてもいいですか…?。」
という一言を伝えてみる、というものでした。といっても、この時点でまだ「ですます調」は抜け切れていませんが、この一言をきっかけに相手からOKがもらえれば「さぁ頑張ってタメ口を使ってみようっ!」そう自分に言い聞かせながら、徐々に慣れさせていく練習を始めることができます。
わたしが「丁寧語」か「タメ口」かなんてことに頭を抱えていても、中には最初から、またはとても早い段階で親しい友達のように話している大人の人も見かけます。どうしてこんなに違いがあるんだろうと、当時のわたしには理解できませんできたが、そこにはASDが関係していたということを後々知ることになったのです。
「丁寧語」から「タメ口」に変わる境目がわからないのはどうして
わたしが「丁寧語」から「タメ口」に変わる境目がわからない、タイミングが全く測れずにずっと丁寧語から抜け出せない状態になってしまう原因には、実は相手との関係性にあったのです。それがどういうことかというと
「相手との関係が不明瞭」だからなのです
例えば部下と上司という関係や、お客さんと店員という関係であれば、どういう言葉遣いをすればいいのかはある程度、明確に決まっています。それが自分と同じくらいの立ち位置にいる、絶対に丁寧語を使わないといけない相手でもない、だとしても全く使わないでいい相手でもない。このような曖昧な関係性はASDにとって、カテゴリーがはっきりしていないが故に理解が難しいのです。カテゴリーがはっきりしていないと、どうして理解しにくいのか。それはこういうことだったのです。
心理的距離感は相手との親密度や過ごした時間、一緒にいる時の表情や口調、こういった
自ら読み取らないといけない部分に存在します
この読み取りが難しいのです。例えば「はい、ここからタメ口です。」という瞬間がわかりやすく、目で見て、または言葉ではっきりと伝えてもらえれば即座にできます。でもそれがない、曖昧で、尚且つ暗黙の了解の領域、これはASDにとっては理解が難しいからこそ、その境目がわからなかった、ということだったのです。
わたしはこの事実がわかってから、仲良くなった人と自然に「丁寧語」から「タメ口」に変えられるようになったとは言えませんが、そのこと自体にこれまでのようなエネルギーを注ぎ込まなくなったとは言えるかもしれません。丁寧語から抜け出せないんだったらそれでもいいし、タメ口に変えたかったら変えたらいい、そうやって自分を受け入れられたことで、なんとなく肩の荷が降りた…そんな感じを受けたからかもしれません。
ASDにとって答えの見えない領域があると、ずっとモヤモヤと生き辛さがついて周ります。それはただ、自分自身のことを知らなかった、ということに繋がるのではないかと思っています。自分の中の何かがおかしいのではなくて、少数派としての、ASDとしての自分がこの社会に存在している、というだけなのです。こういった感覚をもっと多くの人に知ってもらい、いつの日にか少数派、多数派という領域を超えてそれぞれに生きやすい社会ができていくことを願っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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