ASD 公共のトイレを怖がる子供たち

感覚過敏

日常に潜む様々な「ハードル」

ASDである私の子供の頃を振り返ってみると、自分で言うのも何ですが本当にたくさんのハードルを乗り越えていたと思います。例えばその中には分かりやすいもので言うと、嗅覚過敏から給食の匂いが気持ち悪くて毎日吐きそうになりながら登校していたり、聴覚過敏から運動会はピストルの音が怖くて毎年汗びっしょりになる程ずっと耳を閉じていたり、ごっこ遊びが苦手だったり偏食があったり。とにかく普通に1日を過ごす、というだけでもその日常の中には沢山の、様々なハードルがあったのです。そして、こういったものに加えもう一つ、高いハードルとしてあったのが

人がたくさんいるザワザワした、慣れない空間に入って行くことでした

それは習い事に行くのもそう、慣れない建物に入っていくのもそう、感覚的なもので表現するとそれは「恐怖」と言うものでしかありませんでした。そして実は私のASDの息子にも、同じようなところがありました。その息子が特に大変だったのは

公共のトイレを使用する時でした

既に2歳の頃から公共のトイレを嫌がる、と言うよりも怖がる、というものは顕著に見て取れました。当時、私自身あまり息子の特性を把握できていなかった、2歳の頃の息子との実際のお出かけの様子はこのようなものでした。

先ずは、建物の中に入るだけでも必ず、私とぎゅっと手を繋いで入ります。この瞬間から

  • 多くの人の話し声やその他あらゆる雑音を不快に感じる
  • 想定内ではない事で溢れている

という特性上のものが関係していて既に、身構えていたのだと思います。当時の私は、息子が私と同じように怖がるとは知らなかったので、トイレに行こうと建物の中にある公共のトイレに誘いました。ただ、もじもじしてトイレに行きたい気持ちはあるのに、なかなか入って行けません。手を繋いでゆっくりと個室のトイレに入ったとしても

「ドア閉めないで。」

そう言われてしまいます。“閉鎖的な空間を怖がる”というところもあった息子に、私も一緒に入るから大丈夫だよと、何度も声掛けをしてやっとトイレを済ませました。が、その時です。そのトイレは自動で水が流れる仕様になっていたので、息子が立った瞬間に水が流れ出したのですが、それと同時に

息子はズボンも上げないまま、急にダッシュでトイレから逃げ出してしまったのです

急に水が流れてきた事が想定内ではなかったことに加え、聴覚過敏が酷かった息子にとってその「水の音」がどうしても大きく聞こえて、とてつもなく怖かったのです。私は走って追いかけ、泣きながら怖いと訴えてはパニックになった息子をなだめました。この時から、トイレが自動で流れるかどうかの確認、というものを必ずするようになりました。しかしながら、まだまだ息子には越えられないハードルがあったのです。それは

ハンドドライヤーの音でした

他の人がハンドドライヤーで手を乾かしていると、その大きな音(大きく感じる音)が怖くて走って逃げていってしまう。音が止むまでトイレに入れない。そんな状況だった当時は、息子とお出かけをしても

「自動で流れるトイレだったらどうしよう…。」

「人が多くてザワザワしていたらどうしよう…。」

とにかくそんなことばかりを考えていたように思います。ただ、どうしても自動で流れるトイレしかない時などは、「自動で流れてくるからね。」そう事前に息子に話して納得してもらうことで予期不安を減らし、パニックにならないように予防線を張っていました。その後も、息子が便座から降りる前には少しでも怖くないように、先に耳を塞いでもらってから降りて、そして息子のズボンは私が手伝う。そのような事をずっと繰り返していました。ポイントとしては、しっかりと本人が納得の出来る説明をした上で、防げる部分はなるべく防いであげる、というものです。

たかがトイレかもしれません。それでもASDの子供たちにとっては

  • いろんな苦手な音で溢れている
  • 閉鎖的な空間が怖すぎる

といった感覚過敏からのものや、見通しのない未知の空間には不安が強くなる、というハードルが立ちはだかってしまうことがあるのです。

感覚過敏がある子供たちに出来ることとは

常に様々なハードルをクリアするために考え、行動しなければいけないのは決して簡単なことではありませんでした。だとしても、息子が怖がる感覚は私にはよく理解できたので、我慢させよう、慣れさせてなんとか乗り越えさせようとは、全く思いませんでした。

感覚的なものは我慢や努力でなんとかなるものではない、その方法は辛すぎる、という経験を私自身が子供の頃に嫌というほど味わってきたからです

そう思うと、感覚的なところで沢山のハードルを越えてきた私の経験も、息子に役立てるためのものだったっと思えれば逆によかったんだと、息子のお陰でそう思えるようになりました。そんな私が、感覚過敏があって怖がる息子に出来たことはたった一つです。それは

怖いというその気持ちに寄り添いながら、必要以上に苦手な状況にさらなさい

というものだけでした。感覚過敏があるという事実を先ずは受け止めてあげて、そこからはその感覚自体が理解できなかったとしても、出来るだけ気持ちに寄り添ってあげる。後は、本人がまだまだ苦痛を伴う状態であるのであれば、必要以上に我慢が生じる状況にさらさない、あくまでも本人のペースに任せる、本人の意思を優先していく、というものです。それはただ単に甘やかす、というものでもなく、無関心から放っておくというものでもない、受け入れ、尊重するという意識が前提にあるものです。

それに、“感覚過敏は年齢を重ねることでいつの間にかましになっていく”という部分もあります。だからこそ必要以上に、そして一番大変な時期に親も頑張ってしまわなくていいと思っています。というのも、何とか他の子と同じようにと必死で取り組んだとしても、そのほとんどは定型発達の子があっさりと出来てしまうことが、年単位で取り組まないといけないことも多いからです。それこそ親子で倒れてしまいます。果てしない事のように感じるかもしれませんが、果てしないと感じるからこそ、この子にとって今はまだ無理な段階なんだ、もっと時間をかけてあげるべきなんだと腹を括り、気持ちに寄り添いじっくりと付き合ってあげるということだけでいいと、気持ちを切り替えることだと思っています。

当時2歳だった息子も今は10歳になりましたが、公共のトイレは一人で行けるようになりました。ただ、今でも「音が怖い」「閉鎖的な空間は嫌だ」という感覚が全くなくなった、という訳ではありません。それは私もそうですが、大人になっても感覚過敏やその他の特性はずっと継続してあるものだからです。私にしても、初めて打ち上げ花火の音を耳を塞がずに聞いたのは、中学2年生の頃でした。それでも耳を塞がなかっとはいえ、恐怖心がなくなっていた訳ではありません。思春期になって、耳を塞ぐのが恥ずかしかったから怖いながらも無理をして聞いた、という感じです。ただ、私は14年以上かなり強い恐怖心を持ったままでした。その原因の一つに考えられるのは

大きな音が怖いという感覚的なところを誰にも理解されずにきた

というところは大きかったかもしれません。私の親は感覚過敏について無知だったからこそ無関心で、慣れさせれば大丈夫だろうと安易に考えては、何度も私を花火大会に連れていきました。結局そのことが強い恐怖心を長引かせてしまったという、、逆効果に繋がったのではないかと思っています。

もちろん今でも、打ち上げ花火の音や運動会のピストルの音が怖くない訳ではありません。ただ、子供の頃のように汗びっしょりになる程、耳を塞がないといけないという事はなくなりました。それは、私が自ら「花火の音を聞くぞっ!」そうやって決めたからこそ、その頃から少しづつましになってきたのだと思います。ただ、一人で戦うのは大変です。だからこそ

感覚過敏があるその子を受け入れ、気持ちに寄り添いながら、小さいうちから親子で歩むことをしていって欲しいと思っています

そうすることで、本人が無駄なストレスを抱えることなく、いつの日か越えられそうもなかった高すぎるハードルが低くなっていく、ということが必ず起こるからです。

ASDの子を持つ親だから経験できること

ASDではない他の多くの親子にとっては、あえて目を向ける必要もない、何でもないただの「公共のトイレ」。それがASDの子を持つ親子にとっては、毎回毎回が挑戦だったりします。実際、私も当時は息子とトイレに行くだけでも一苦労…ということに加え、例えば他にも、じっと座っていられないから外食をしてもゆっくりとご飯を食べられない、逆にとても疲れてしまうから行きたくない…ということもありました。大人しく座ってご飯を食べている子を見ては、正直、羨ましいと思ったことも、トイレにさっさと入って、何事もなく出てくる親子を見ては、疲れ切った重いため息をこっそりと吐いたこともありました。

それでも、私は今でも覚えていますが、ある日、息子がパートナーと2人で男性用のトイレに行って出てきた時に

「ママ!トイレあんまり怖くなかったよっ!。」

そうとても嬉しそうに報告してくれた時にはぎゅっと抱き合い、それこそ親子でとても喜びました。4年…いえ5年はかかったかもしれませんが、一緒に乗り越えたというその経験は私にとってギフトそのものでした。実はこのような経験を、私はASDの息子からたくさん受け取っています。もちろん、大変なことは今でもあります。だとしても、大変だったことはいつか喜びや感動に変わる事もある、ということを経験出来ました。

定型発達の子と比べてしまえば、いろんな面で焦りが生まれてしまいます。それがどうしてなのかというと、全員がそのように一律に出来るんだと、その事がさも当たり前のような情報がたくさん存在しているからだと思っています。そのことに加え自分自身が、ASDについての知識がまだまだ浅い、というところももしかしたらあるかもしれません。もちろん、他の子と比べることが全てにおいて良くないとは思いません。時にはポジティブに受け止めるために必要な場合もあると思いますが、あくまでもそれは“他の子の基準に過ぎない”という意識は持っておいてもいいと思っています。そのことで初めて、じっくりと親子で向き合うことが出来たり、自分たちにあった道を一緒に探っていけたりするからです。そんなASDの子供たちの未来を、そしてその子供たちを支える親御さんたちを、私はこれからもずっと応援していきたいと思っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。

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