ASD 自分勝手に話し続けているようで、実は自分勝手ではない人達

発達障害

自分勝手だと感じさせてしまうのはどうしてなのか

ASDのわたしには、お互いに会話を楽しんでいる相手がいたとしても

「話したいことをずっと話し続けてしまう」という場面があります

それでも今では、そんな自分自身に気付くことが出来るようになってきた、という時も増えてきました。ただ、そういった“気付く時”というのは大抵

  • 相手が無口になってしまっている時
  • 明らかに退屈そうに頷いているだけの状況を察知した時

というような、わたし自身が「あぁ…またやってしまった。」と感じた時なのです。ですので、どちらかというと“気付いたとしても時既に遅し”という残念な場面の方が明らかに多いと思います。そういった相手の状況や心境を察知し難い、または感じることが出来ない事の背景には、ASDだからこその理由があります。その理由というのは、ASDの特性の一つにある

興味関心に強い偏りがある

というものです。興味を惹かれるような単語を会話の中に察知してしまうと、無意識的に自分の興味のあることしか見えなくなりその結果、相手に一言も話させないような状況を作り、興味ある事についてだけを話し続けてしまうのです。ただ、こういった事実は、ASDにとっては“当たり前にある普通”として自分の中に存在しています。

ASDが自分勝手だと感じるような話しをし始めた時に、聞く側に出来る事

ASDには、ASDにある特性上に成り立つ言動があります。その中でも、興味のあるものに意識が集中しすぎてしまうと、いつの間にか今置かれている状況が見えにくくなってしまいます。ただ、そうだと理屈ではわかっていたとしても、どうして繰り返してしまうのかというと

その瞬間に自分自身をコントロールする事が、とてつもなく難しすぎるからなのです

「出来ない」といっても過言ではないと思います。というのも、そもそも定型発達の人たちのほとんどは、“相手の話しは興味がなくても先ずは聞くという姿勢が大切で、それは相手を尊重するということにつながると認識している”という感覚の元でコミュニケーションをとっていると思います。こういった認識があって初めて、お互いにとって良い関係性が成り立つこともあります。ただ、そういった「阿吽の呼吸」が成り立たせているものが、ASDにとっては至難の業だったりするのです。

だとしても、自分勝手だと感じさせられるような、興味を持てない一方的な話をずっと聞かされる側は疲れてしまうこともあると思います。ただ、どうして疲れてしまうのか、というところなのです。それは先ほどにもお伝えした、無意識的に相手の話を聞くという姿勢が大切だと、そのことが当たり前の感覚としてあるからだと思います。

ではASDが一方的に話し続けている時、その内容が相手にとっても興味のあることであればいいのですがそうでない時、実は聞く側が疲れてしまわないポイントがあるのです。少しストレート過ぎる表現かもしれませんが、一般的な常識を取っ払って取り入れてみて欲しいと思います。それというのは

興味のない内容については一生懸命聞こうという姿勢を無しにして「少し待つ」ということをする、というものです

たまに相槌をうつくらいのものでいいと思っています。それがどうしてかというとASDが一方的に、自分勝手だと見える話し方をしている時というのは、軽い過集中モードに入ってしまうからこそコントロールが難しいということもありますが、本人にとっては必要を感じているかのような感覚の時間でもあるからなのです。というのも実は、相手にとっても喜ぶ内容ではないかという意識もセットであったりするのです。だからこそいろんな要素がプラスされて、どうしても伝えたいという意識が強くなってしまっては止められなくなってしまうのです。ですのでこういったASDの状態を知った上で、聞く側はできれば頑張って聞こうとしなくていいので、出来ればほんの少し、待ってあげてほしいのです。

コミュニケーションが上手な人もいれば、上手く出来ない人もいます。ASDの多くは上手く出来ない人達かもしれません。だとしても、もともと持っているものがそれぞれに違っている、発達の仕方が違っている、というだけのものだと思っています。その違いをお互いに尊重し合いながらどこかで折り合いをつけたり、今までになかった方法を試してみたりすることは大切だと思っています。

ASDが話し続ける内容に「もっと着目してみるという楽しみ方」

わたしはわたしと同じASDの息子に対して、または大人のASDの方が興味あることを楽しそうに沢山話してくれる時には、実はわたし自身も興味を持って楽しんで聞いていることの方が多かったりします。というのも

ASDが興味のある事を話し出した時に、その内容自体がとても深いからこそ逆に、これまでにあまり興味がなかった内容だとしてもいつの間にか惹き付けられている、という事があるからです

ただそれは、わたし自身がASDだから、という部分もあるのかも知れませんが、実はASDでなくても対ASDの人たちとの会話を楽しむコツ、というものもあります。そのコツというのは

内容が難しい、または知らないことがあった瞬間に「とにかく質問しまくる

というものです。この方法は実際わたしがやってきたものです。といっても最初から意識してやっていたことではありません。「そういや質問をたくさんすると、ただ聞いている時より全然楽しな。」そう後々気づいたものなのです。このことでASDの人たちとより会話を楽しむことが出来たのは事実です。ASDが自分勝手に話し出した時というのは、一方的なところがあるとしても、その内容は濃く、実は聞けば聞くほど面白いということは本当にあるのです。

ASDの人達は本当に大人になってもナチュラルで、裏表がありません。だからこそ

自分ではないところで振る舞わなくてはいけないような、器用なコミュニケーションがとてつもなく苦手です

ASDはいつまでたっても

  • 真正直で嘘がつけない
  • 自分が生きたいようにしか生きられない
  • 他人に合わせることが難しい

という、不器用だと自覚させられる毎日を生きている人達だと思っています。だからこそ、社会の中で強いストレスを感じている人が多い、という現実もあるのです。もちろん中には、ASDの特性があったとしてもそのことがストレスになっていない、という人もいます。それは例えば

子供の頃から親や周囲に理解があり、自分自身もある程度自覚している、そしてその事実を受け入れた上で自分に合った環境で過ごしている

という、育ってきた環境や出会った人に支えられ、そのことが自己肯定感を高めるというところに繋がっていったからこそ、苦手や不得意なことに関しても受け入れられる、このようなASDはそうかもしれません。ただ、わたしの経験上そのようなの大人のASDの方は、まだまだ少ないのではないかと感じています。

子供の頃から身に付いてしまった、過剰適応が標準モードになってしまっていたとすれば、ASD独自の興味深い話も、多数派の人達とは違った目線で捉える意見や感覚も、自分自身が抑えてしまうような状態になりその結果、ASDである自分は無いも同然のようになってしまいます。その上、強いストレスが日常となれば、二次障害を発症する事もあるでしょう。誰一人として同じ人はいません。その事実を言葉では簡単に言えたとしも、感覚で認識できる人は少ないのではないかと思っています。そう感じているからこそ

当たり前だという思い込み、先入観というものの見方で、目の前にいる人を自分だけの常識というメガネをかけたまま判断してしまうのは危険だと思っています

わたし自身がASDだから言えることなのかもしれませんが、あまり難しく考えずにASDと付き合って頂ければ、付き合い方がわからない、気難しい人達という見方からもしかしたら

もっとラフに付き合える人達

という見方に変わることもあると思います。面白くない話に面白くないと伝えても、「あぁそうなんだ。」とあっさりと受け入れられる人達であり、逆に興味を持ってもらえれば、相手が満足いくまで伝えてあげたい、そう思う人達がASDなのです。

自分勝手に話し続けているようで、実は自分勝手ではない人達

ASDが自分の興味のあることを話し続けてしまうのは、脳の構造上からきているものです。興味のある事に関しては集中力が高い、高すぎるが故に周りが見えなくなる、ただそれは相手の事を考えずに自分勝手に振る舞っているものではなく、その瞬間のコントロールが難しいというだけのものなのです。

ただ、そういった事実を知らないままでは、多数派の人達の認識のもと、鬱陶しく思われたり、勘違いされたままでいることもあります。そのことにASDが自分自身で気づき、迷惑がられている事に悲しい思いをしたりすることがあるのはどうしてなのかというと

話しているそのこと自体が楽しいという事実もありますが、もっと楽しんでもらえるように知っていることを伝えてあげたい

実はそう素直に思っていただけ、というところもあるからだと思っています。

ここ数年の間に、発達障害という言葉は広く認識されてきたと思っています。ただ、マイノリティという人達には実際どういう特性があるのか、どういう人達なのか、そういった詳細な情報まで認知されているとは言い切れないと感じています。もちろん、ASDとは全く関係のないところで生きている人達からすれば、特に必要のない情報かもしれません。だとしても

少数派の人達は現実に存在しています

そうと分かってはいても、興味もないし自分とは無関係な事をわざわざ学んでみようとは、なかなか思えないのも当然だと思います。ただ、いつの日かマイノリティの人と出会う、関係性を持つ、ということが出てこないとも言い切れません。その時に、知識があるのと無いのとでは、相手を受け入れられるか拒絶するか、このどちらか二択の選択をすることを迫られる状況になるとは思っています。それほどに少数派の人達の感覚や考え方、物の見方は独特で、敢えて知ろうとしなければ見えてこない世界だからです。

ただ、中にはASD傾向があったとしても本人にはその意識がない、または気付いていない、という人もいます。わたしはそういった人達に対しても、ASDに関しての知識を得て欲しいと思っています。それは、無知なままでいることなく知識を得た上で受け入れ合う、ということが大切だと感じているからです。 ただもちろん、知識を得た上で関係性を築こうとしても全てが上手くいくとは限りません。それはそれで仕方のない場合もあると思っています。努力した先に我慢の方が上回ってしまうのであればそれは、ASDの特性が関係しているというよりも、お互いの相性の問題だということもあります知識を得た上でも離れることはあるかもしれませんが、それは本人同士納得のいく決断をして、それぞれの幸せを求めていく、ということもあっていいと思っています。

最後になりますが、思い込みや先入観が自分にあるという事に気づくのは、どんな人であっても難しいと思います。だからこそもしあなたが、少数派の人達と関わろうとする時には知識が必要なのです。今回の内容でも、知らなければASDという人達はただ、自分勝手に話し続ける空気の読めない人達だと思われたままになっていたと思います。そうではない認識のもとでASDの人達と会話をしてみると、これまでには無かった感覚を経験できると思っています。時代は多様性を求めています。逆にその波に乗れなければ、取り残されてしまうかもしれません。だとすれば今こそ、多様な知識と関係性を必要とし、そのことを活かすチャンスの時ではないかと思っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。

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