ASDにとって“友達”とはどういうものなのか
友達が欲しいという感覚がない
わたしは子供の頃から
- 集団で何かをすることが苦手
- 協調性がない
- 独りでいることが大好き
こういったASD的な特性をしっかりと持った子供でした。ですので、友達もとても少なかったんです。それでも、特に友達に関して悩んだりしなかったのは、生まれ育った環境がとても田舎だったこともあり、小学生の頃から高校生になるまで、幼馴染のような限られた友達とずっと一緒に過ごしていたからだと思います。
その頃から、友達を自ら作ろうと思ったり、たくさんの友達が欲しいという感覚がなかったわたしだったので、なんとなくいつも一緒にいてくれる人と居られればいい、この人といると楽しいからこの人とだけ遊べればいい、それくらいの気持ちで過ごしていました。
それでも高校を卒業し、地元を離れ、都会の専門学校に通い出してからは“友達”ということについて度々、モヤモヤとしたなんとも言えない感情を抱えていました
わたしが入った専門学校というのは、そこに集まる学生は他県から集められたほぼ全員、初対面でした。このような状況ですぐに見られるのは
いくつかの気の合う者同士の集団に分かれて、その集団で集まっている人同士を友達だと呼び合う
というものでした。当時のわたしは、集団の中に誘われたこともありましたが、ほとんどの時間は、たまたま席が隣同士で、わたしといつも一緒に行動してくれていた友達と2人で授業を受けたりして、過ごすことが多かったのです。
ただ、一緒に過ごしていた友達も、ある一つのグループの中の一人ではありました。そのことからも、わたしと過ごすことがあったり、集団の中の友達たちと過ごすことがあったり、そうやって行き来しているのを、わたしは眺めているような毎日でした。
友達がいないことで悩んでしまう原因とは
当時からわたしは、気の合う友達のところに行きたい時に行き、わたしと過ごしたいと思って来てくれた友達と過ごす、という完全に個人的な行動と、マイペースさを重視した過ごし方をしていました。
ただ、他の友達は数人で集まったりすることも多く、そしてそのこと自体が目立っていて、友達とはこういうものだ、というイメージも実際、強く感じていました
実はそのころに初めて、親や周りの大人が言っていた「友達はいるべきだ」という言葉が思い出されて、わたしの中に刺さったのです。それに当時は18歳〜19歳の頃だったのですが、友達との関係性とはどういうものなのか、ということをとっくに経験している同年代の子達と比べ、ASDのわたしは、その年齢になってやっと考えさせられた、というところもあったと思います。
こういったことが、モヤモヤした気持ちの正体であり、更には
たくさんの人の中で、そして誰とでも楽しめないわたしは何かおかしいんだろうか…
そんなことまで思っていました。ただもちろん、集団で集まることをしている友達たちに誘われて、参加することもありました。正直、少し無理をしていたとは思います。そうした方がいいと、そうするべきだと思っていたからなのです。
それでもそうやって、たまに参加するような時も、嫌な思いをするということはありませんでした。ただ
やっぱり一対一か、一人の方が気が楽だな
とは思っていました。嫌な思いはしなくても、楽しくはなかったんだと思います。その結果、結局は個人プレーが基本であるわたしから、わたし自身が逃れることが出来ずに、集団で集まることが好きな友達たちとは離れました。誘われても行きたければ行く、帰りたい時は帰る、というように自分に正直に、そして
「友達はいるべきだ」というものを捨てて過ごしていました
ASDにとっての“友達”その感覚は自分だけにあるもの
わたしは友達の必要性というものを、自分軸を基準にし、その感覚に従うことをし出してからは、逆に毎日がとても楽に過ごせるようになりました。
その頃から何故か、不思議なことが起こりだしたのです。それというのが、わたしと同じような個人主義的な人と友達になったのです。その友達とは、お互い気楽なマイペースさを保ちつつ、残りの専門学校の頃はずっと一緒に過ごしました。今思えば、同じような特性を持った者同士だったのかもしれません。
その他にも、当時はほとんど接点がなかった、わたしのことを「一匹狼」と言っては面白がってくれていた同じクラスの子と、お互い専門学校を卒業してから偶然、同じ職場で働くようになり、実はそれから仲良くなり、20年以上たった今でも大切な親友として繋がっています。
その後も、いろんな職場で気の合う人とは出会うことができ、ずっと親友関係でいられる人も何人か出来ました。
わたしは今でもそうですが、わたしの中にある友達との時間の使い方、というものは
気の合う、お互い無理のない関係性が築けている友達にしか時間を使わない
というものです。少しでも疲れてしまうと感じてしまうような人たちとの時間を作るくらいなら、自分の好きなことをする時間を優先しています。逆に、時間を割いてでも会いたい友達には積極的に使うことをします。ここはいかにも、ASD的なところだと思っています。
ただ、このような結果に至ったのには、周囲に合わせよう、友達はいるべきだと思っていた自分でいた頃に、とてつもなくストレスフルだった経験があるからこそ、敢えて選択している、と言っても過言ではないとも思っているからです。
自分に素直なままで生きていれば、無理に友達を作ろうとしなくても、自然とそんな自分に合う人も出てきます。それは学生の頃だけではなく、ずっと大人になってからでもあることなんです。そうやって出会った人たちの方が、長く親友でいられたりもします。
ASDにとって“友達”とはどういうものなのか、ということをASDの視点で見ることをした時に大切なのは、一般的な価値観を捨てて、自分にある感覚に素直になることだと思っています。
集団の中で孤独を感じてしまうような関係性よりも、たった一人であっても一緒にいて楽しい、幸せだと感じられる関係性を築けていける友達が、ASDにとっては大切なのではないかと思っています。
最後に
わたしは子供の頃からとにかく、どんなことに対しても“広く浅く”ということが出来ない人でした。それは物事に対しても、そして対人関係にしてもです。
それでもわたしの子供の頃の教育や、周りの大人たちの考えというものは、友達は多い方が良い、友達をたくさん作れる人の方が人格的に優れている、というようなものでした。直接そうだと言われたり、言われなくても無言の圧力のようなものは感じていました。
それでもわたしは、どうしてもたくさんの友達と遊ぶことは苦手だし、作りたいとも思えなかったのです。そのことを自分の中だけに閉じ込めて、過ごしていました
そんなわたしは今でも、友達は本当に少ないですが、そのことで悩むことは全くなく、繋がってくれている友達が数人いてくれるだけで、気持ち的にも十分満足していて、それ以上にたくさんの友達が欲しいと思うこともありません。
このことからも、ASDだから、というものでもないのかも知れませんが、他人の主観に囚われず、自分を信じて生きることは、自分の本心や生き方を見失わない為にも、大切なことだと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
コメント