ASDは他人に興味はないけど”人が嫌い”な訳じゃない
”他人に興味がない””人との関わりをあまり好まない”
ASDはよく”他人に興味がない””人との関わりをあまり好まない”、このようなことが言われています。確かにわたしは子どもの頃から、そして大人になった今でも、この2つは当てはまります。そうなってしまうわたしはいつもどう考え、何を感じていたかということに関係してくる特性を、挙げてみたいと思います。
感覚過敏から
聴覚過敏や嗅覚過敏、視覚過敏に触覚過敏があるわたしにとっては
出来るだけ疲れ切った感覚的なところを休ませたい
例えばそれは、音の少ない場所で休憩する時間というものを、無意識的に求めていました。ですので、学校や会社といったようなざわざわした場所に何時間もい続けると、どうしても人から離れた場所に身を置きたくなるのです。
興味が無いこと以外は出来るだけ話したくない
ASDのわたしには、興味・関心への強い偏りがある為
- 興味のあることだけを話していたい
- 興味のあることについてだけの話を聞いていたい
これ以外の会話は、苦痛になることが多いのです。そして、例えば会話の中に少しでも相手からわたしに向けられたネガティブな空気を受け取った時も
そもそも不安要素が強くあり、油断をしたら0・100思考が先行してしまうため
離れることをしてしまいます。
常にマイペースを崩されることを避けてしまう
ASDは自分の時間で動きたいという、自分にあるマイペースさを重視します。それが
数人で集まれば、マイペースが崩されてしまいます
その上、他の人に合わせて話をしたり、行動したりすることがとてつもなく苦手です。というよりも、そもそも人との関わりに関心が薄いため、答えたいとも思わないのです
こういった特性も根底にある為、人との関わりは必要最低限にしたいと考えてしまうのです。
理由は他にもいろいろありますが、このような特性から”他人に興味がない””人との関わりをあまり好まない”と見られてしまう行動をとってしまうのだと思います。
ASDの人との繋がり方は”損得勘定”ではない
常に自分は自分だという軸がぶれない
これまでのことからASDを見ると、興味があった人とだけしか付き合わない、自分にとって得だと感じられる人以外は必要ないと考える、そう思われるかもしれません。そして、そういった関係性は損得勘定からのものだ、そう言われても、そう感じられても仕方のないところもあるかもしれません。
ただ、ASDの本質は違っていると思っています。それがどうしてかというと
逆に人との関係性において、計算で付き合うということも出来ません。世の中には、この人と繋がっておけば後の自分にとって何か徳があるのではないか、というようなある意味自分を偽り、うわべで付き合うというような関係性もありますが
ASDにとって自分ではないところの自分とでは、人と付き合うことは出来ません
ですので、サラリーマンをしていたとしたら、世渡り上手に出世していけるタイプではなく、実力主義でなんとか登ろうとするタイプが多いと思います。その上、関わりを最低限に抑えるというASDには
常に自分は自分だという軸がぶれない
こういったところがある為、少し無理をした付き合いがあったとしたら、その無理をしている自分を、それこそ四六時中、考え続けます。その結果、出来るだけ早い段階で、自分軸に戻る為にさっさと離れることをしたりします。
他人に興味はないけれど、人が嫌いという訳ではない
孤立は気にならないけど孤独は好きじゃない
わたしは基本、一人でいることが好きです。それは子どもの頃からずっとそうでした。ただそれは厳密にいうと
孤立は気にならないけど孤独は好きじゃない
というものです。というのは、ASDは
他人に興味はないけれど、人が嫌いという訳ではないのです
ASDであっても、もちろん興味を持てる人、長く付き合っていける人、そういった関係性を築いていける人はいます。ただそういった人は、人数的に少ないASDは多いと思います。というのもASDには
- 相手が自分(ASD側)の感覚、話し方、考え方に違和感を持たない人
- 自分(ASD側)が相手の考えや想いを受け止めたいと思った人
こういう人と繋がりたいという、その思いがはっきりし過ぎているからなのです。ですので、繋がっっている人たちのことはとても大切に思いますし、機会があれば話をしたいとも考えます。
孤立を好みつつも、繋がりは大切にしたいと思うのがASDだと思っています
実際そういったASDの方を見ていると
- 潔くて気持ちがいい
- ぶっきらぼうに見えて思慮深くてやさしい人が多い
わたしはいつもこう感じています。人を羨むことなく、真っ直ぐに生きているのがASDだと思っています。というよりも、自分に対して真っ直ぐにしか生きれないのがASDなのかもしれません。
最後に
ASDのわたしにとって”経験”というものは
わたし自身が生きていく上で必要不可欠な、あらゆる資料を詰め込んだ引き出しのようなものです
どんな場面においても、この会話の時にはこの引き出しのこのファイルから、この場面ではこっちの引き出しの奥の方にあるこのファイルから…というように
大量の記憶の引き出しからそれにあった資料を引っ張り出し、そして実験的に常に試していきながら、その結果からまた経験の引き出しを増やしていく
そうやってひとつづつ引き出しと、その中にある資料を書き直しては増やし対応しながら、社会の中で生きてきたように思います。
それ程わたしにとっては、現実社会というものは複雑で、わかりにくいものだったのかもしれません。ただそれでも、様々な人と関係していくという経験は、わたしの引き出しになっていきます。その引き出しが多ければ多いほど、結果的に生きやすさに繋がっていくものだと思っています。
ASDは人に興味がなくても、人が嫌いではないのなら、勇気をもって試行錯誤を繰り返していくことが、ASDにとっての生きる糧となっていくのではないかと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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