ASD 相手に対して”失礼な発言”をしてしまう

発達障害

ASDは相手に対して”失礼な発言”をしてしまうのはどうしてなのか

相手との関係性においての優先順位が違う

わたし自身、学生の頃は先生に対しても敬語を使うなんてことはほとんどなかったように思います。そういう事もわたしが通っていたような田舎の学校なら、先生と生徒の関係が近く、他の子たちでも見られたかもしれません。それでも当時を振り返ると

わたしの敬語の使い方、目上の人に対する接し方は少しちがったところにあったように思います

自分では失礼な発言だと気づいていない

実はわたしは、なんとなくですが、人に対しての見方が他の人とは違うのかもしれない、ということを思ったことがありました。おそらく小学生の高学年くらいだったと思います。それがどういういものかというと

目上の人であれ、先生であれ、その肩書きに関係なくその人がどういう人なのか、というところで接してしまう

というものです。このような視点で人を見てしまうため、というよりも、この視点を無意識的に優先してしまうために、相手や周りをひやひやさせてしまうこともありました。

実際、今でも覚えているのが、わたしが小学5年生の頃のことです。その当時、わたしは担任の先生のことが本当に大好きでした。わたしの事を初めて理解してくれた先生だったと思います。ですので、わたしは何かあると、休み時間にも関わらず、職員室にまで行って先生に話を聞いてもらっていました。

その時に、担任の先生の斜め前のデスクに座っていたのが、わたしが過去に嫌がらせをよく受けていた先生でした。その時、咄嗟にわたしが言った言葉というのが、しかもその先生を指さし

「あいつ嫌いやねん。」

という一言です。しかも普通の声のボリュームだったので、その先生にも聞こえていたと思います。もちろん担任の先生は焦って、苦笑いを浮かべながらも

「こら…そんなん言うたらあかん。」

と言われたのを覚えています。それでも当時のわたしは

(嫌いなもんは嫌いや…なにがあかんのやろ…)

と思うだけでした。もちろん今は当時ほど、周りを焦らせてしまうような状況を作ってしまうことは、ほぼなくなったとは思いますが、それでもふとしたところで

  • 先生や目上の人ということを意識せずに話してしまう
  • 失礼な発言をしていることが自分では気づきにくい

というところはあると思います。

失礼にあたる発言だと気付けなかったある文面

この文面を読んで、みなさまはどう感じられるでしょうか。どこかおかしいと感じられるところはあるでしょうか。

”大学生のDさんは、卒業論文の相談のアポイントを取るために指導教授に電話をしたところ、「いま手が離せないから、1時間後にかけ直すように」と言われました。言われた通り1時間後に電話をかけ直したところ、指導教授が「先ほどは失礼しましたね」と言ったので、Dさんは「大丈夫です、気になさらなくていいですよ」と答えました。

この文面は有名な精神科医師で医学博士でもある”本田秀夫”先生の書籍からのものです。

この文面のやりとりのどこがおかしいのかというと、大学生のDさんは敬語を使っているけれど、「気になさらなくていいですよ」というものは、述べる方が目上、あるいは何かを頼まれている立場の側にいる時に使うというもので、この場合なら「とんでもありません」という趣旨の返事をするの通常だと書かれていました。

わたしはこの文面を読んだ時に、咄嗟には何がおかしいのかがわかりませんでした。ただ、よくよく読み返してみるうちに、たぶんこの言い方だろうな…ということには気づくことが出来ましたが、そう気づいたのもしばらく考えてからです。

もしかしたらわたしも、Dさんのように「気になさらなくていいですよ」という発言をしてしまうかもしれません。というのも、これはわたしの経験と見方によるものなのですが、どうしても相手を肩書き関係なく、一人の人として接してしまいがちなので

指導教授が申し訳ないという気持ちを抱えている、そのことに対して少しでも早く、その気持ちを取り去ってあげないと

と思ってしまうからなのです。

相手の気持ちや心情の方を優先してしまうのです

ですので

相手との関係性を踏まえた上で、どういう状況でどのように発言を選んで使うのかという咄嗟の判断が難しくなってしまうのです

そのことが結果的に、相手に対して失礼な発言になってしまうことがあるのです。

ただ、Dさんの場合は大学生ということもあって”敬語を使う状況のインプットの量が少ない”ということも考えられるかもしれません。

実際ASDのわたしは、どんな場面でも、人との関係性においても、臨機応変な対応が苦手です。ですので

この場面ではこういった敬語を使う、ということを、それこそ一つづ記憶の場所に保存しては、その状況に合わせては引っ張り出し、一つづつ当てはめながら使っていきます

そのインプットの量が少なければ、経験したことのない場面に出くわした時、その状況にあった言葉の記憶がない為に、間違った発言をしてしまうということがあるのです。

一つの記憶を応用して使う、ということが難しいからなのです

このことから、もしかしたら社会に出て、いろんな場面での敬語のインプットが増えたら、おかしな発言ではなくなっていくかもしれません。

外国に行って過ごしやすいと感じたこと

失礼な発言も後で気づくことはある

わたしは若い頃、よく一人で外国に旅に出ていました。長くて1ヶ月、短くても10日~2週間は最低でも過ごすことをしていました。いつも一人で行っていたので、もちろんトラブルに巻き込まれたこともありましたが、なぜかいつも

とても居心地がいいということは感じていました

それがどういう場面でそう感じたかというと、会話と人間関係でした。といっても、ほぼ片言の英語くらいしか話せませんが

敬語の壁がなく、伝え方もストレートでわかりやすい

というところでした。このことからも当時のわたしは、社会に出てからの目上の人との会話や、人との関係性にどこかしら疲れを感じていたんだと思います。

失礼な発言をしてしまい、そのことに気づいていない時もあったと思いますが、実は後になって

あの言い方をした時に、一瞬相手の顔が曇ったな…

ということはよく感じていたからなのです。でももう取り返しがつかないと落ち込み、そして自責の念に駆られる、という繰り返しが多かったように思います。

全てのASDにそうだとは言えないと思いますが、失礼な発言の裏には、何かその人なりの思いや考えが隠されていることもあると思います。だからといって、相手を不愉快にさせてしまうのは仕方がないとか、そういう事ではありません。

ASDも発言に対しての自覚を持ち、自分なりの方法で対応できるようにしていくことも必要だと思っています。ただ

ASD的な視点や理解の仕方が、あらゆる場面でその他大勢とは違ったもので表現されることがある

ということも、知っておいていただければと思っています。

最後に

わたしは今までに、といってもこれからもないとは言い切れませんが、人に迷惑をかけながら生きてきたと思います。ただ、そのことに気づかずにいた頃のわたしは

  • 自分の考えが正しい
  • 相手が間違っている

そんな凝り固まった思考で生きていたと思います。ただ、そういった思考になってしまう根底には

  • 自分のことを誰も理解してくれない寂しさ
  • そして自分の中にある寂しさに気づいていない

この思いがあったからだと思います。寂しさというのは時として、怒りや反発心として表現されてしまう時があります。

わたしが初めて、5年生の頃の先生に受け入れてもらえた時、嫌がらせを受けた先生に対して”嫌い”と言えたのは”安心感から素直な自分を表現できた”ということだったのかもしれないとも思っています。

ASDはマイノリティなだけに、理解されない、孤独を感じる、こういったことを当たり前のように日々感じながら生きています。自覚している方は特に、だからこそ本音を言えない、一人で抱え込んでしまう、ということもあると思っています。

そう感じているASD当事者やASD傾向のある方、そして関係している方にとってわたしは、複雑で混沌とした日々から、多様性を受け入れ、シンプルで理解のある日々に変わっていくことを願っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。

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