ASDの会話は常に”情報交換”が基本
ASDが”雑談”の場にいるとどうなってしまうのか
ASDが苦手とするものの一つに”雑談”があります。わたしも今ままでに何度も、雑談の場にはいたことがありますが、その時のわたしの状態を表現するとすれば
- ただただ沈黙している
- 他の人たちが会話をしていることと違う内容のことを考えている
- 時間を気にしている
大体がこういった感じです。掛け持ちでいくつかアルバイトをしていた頃も、お昼休みをまとめて数人で取る、というスタイルの職場などでは、その職場の人たちが会話を楽しむ中
沈黙を貫き通し、休憩時間にも関わらず逆に(早く休憩時間、終わらないかな…)なんてことを考えながら時間を気にしていました
実はこういったことにはASDなりの理由があるのです。それというのが
- 人に合わせる
- 集団の中に入り込む
- 興味のない会話に参加する
このことはASDにとって、とても無理をすることであって、会話を楽しむどころか、逆に疲れてしまうことだからなのです。自然に会話に軽く参加するなんてことは、難易度が高すぎるのです。だからこそ敢えて、休憩後も仕事を頑張ってやり切れるように、孤立を確保していました。
もちろん経験を重ね、あまりにもこういった態度でいてしまうと逆に周りに気を使わせてしまうことから、タイミングをみて少し会話に参加したりもしていました。ただ、その時は自然に参加する、というよりも
そろそろ参加しておかないとな…
という義務的なものだったと思います。
ASDには”会話に求めるもの”がある
- なんとなくな世間話
- 「最近どう?」などという目的のわからない質問
こういった会話には、参加したくないのが正直なところです。もちろん”何気ない会話”を数人で集まっておしゃべりを楽しむことで、日ごろのストレスを発散できる人も多くいます。ではどうしてASDは、そのような会話を楽しめないのかというと
ということは
- この集まりでは自分が欲しい情報を得られそうにもない
- 会話の内容に興味もない
- 自分から持っている情報を話す場でもない
この様な状況を察すると、自ら話すという、そのこと自体に意識がいかなくなってしまうのです。
ASD同士の”違和感のない会話”とは
ASDは会話の途中でも”沈黙”してしまうのは平気
ここまでお話したように、ASDにはASDの会話に求めるもの、というものが存在します。そのことがよくわかるのが、わたしと、そして同じくASDの友人との会話です。今でも会う機会があれば、時間の許す限りお話ししたりするのですが、その会話の仕方を客観的に見てみると
ほぼほぼ情報交換のみの会話なのです
- お互いに興味のあることについて、最近どんな情報を得れたか報告する
- 知りたい情報について相手が何か情報を持っていないかを聞く
まるでずっと、質疑応答状態なのです。しかも、一つの情報に対して完結すると
お互いに沈黙します
ASDではない人たちの雑談の場では、沈黙の時間が出来そうになると気まずいと感じ始める為か、その時間を埋めようと、特に興味がなくても思いついたことを話そうとすることがあると思います。会話を途切れさせていない方が楽しい、という感覚もあると思います。ただ、わたしとASDの友人は
沈黙の時間が全くもって平気であって違和感も感じません
というのも、沈黙と言ってもただただ黙っているわけではないのです。ASDの会話の基本は”情報交換”だとお伝えした通り
一つの情報交換が終わった時点で、次に何か共有し合える情報はないかと、沈黙の時間の中で考えているのです
ですので面白いのが、お互い沈黙するタイミングも話し出すタイミングもかぶってしまう、ということがよくあります。そういった時はもちろん譲り合いますが、このような会話の仕方でASDは存分に楽しめる、ということなのです。逆に言えば、情報交換以外に何を話したらいいのかがわからない、という感覚かもしれません。
会話を楽しめない訳ではなく、会話に求めるものが違うだけ
ASDには特性として
もともとあまり人に興味がない
というものがあります。もちろん全てのASDがそうではないと思いますが、この特性がある為に、会話の中にある情報を優先させた付き合いになるのだと考えます。というのもASDが結果的に長く付き合っていける人というのは、感情的なところではなく
会話は大切なコミュニケーションのひとつです。ただ、その会話に求めるものが基本的に違う、ということを理解しないままの関係性でいると、いつかこじれてしまうことはあると思います。
ASDは会話を楽しめないのではなく、沈黙も平気で情報交換がメイン、ということなのです
求めるものがお互いに理解でき、受け入れられた関係性でいられるのであれば、もし相手に対して疑問を持っていたとしても、その疑問に対する納得のいく答えも見つかっていくと思っています。
最後に
わたしは自分自身がASDということもあり、定型発達の方がASDとの会話のやり取りの中で
- ASDはどうしてそのような言い回しをしてしまうのか
- ASDはどうしてそういう理解の仕方しか出来ないのか
ということを感じていることが大体わかります。そしてその時に感じているものが、不快感であることもわかります。わたしは基本的にASDやASD傾向のある方、そしてADHDの方が好き、というところはあります。だとしても、ASDを良く見せようとか肩を持つとかそういう思いは全くありません。
そのことを前提として思うことがありますそれは
定型発達であってもASDであっても、それぞれに違いがあり、それぞれの理解の仕方があるということを知るということが大切なのではないか
ということです。それはどちらに偏るものではなく、相互に必要だと思っています。わたし自身、定型発達の方が多い社会の中で生きてきて、その他大勢に馴染めない自分がいることでとても苦しんだ時期がありました。だからといって、そんな自分を受け入れられるかといえば受け入れられず、理解を求めようとすることも出来ていませんでした。
ただ、時代は変わってきています。ASDに対しての社会の体制も変わってきています。この波にうまく乗っていくためには
ASD自身にも自分に対しての知識と自覚を得ることが必要だと思っています
多様性を受け入れられる社会の方が発展していける、ということに関しては、多くの方が理解していることだと思います。その為にも、ASDであっても定型発達であっても、今を生きていくために受け入れ合い歩み寄る、ということが大切なのではないかと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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