ASDの”人に興味がない”という特性は=”空気を読まない”に繋がるのか
ASDは”空気を読まない人”ではない
ASDはよく”空気を読まない人”として見られます。空気を読まない人、と言われてしまうその場面とはどういう状況のことを指すのかというと
- 雑談の場で一人だけ会話に参加せずにスマホを触っている
- みんなで一緒に何かをする時、単独行動に走ってしまう
- 相手が誰であっても、歯に衣を着せぬ正論を述べる
その他にもいろいろとあると思いますが、大体がこういった場面でのASDの行動で”空気を読まない人”と言われていることが多いと思います。
ただ、今挙げた場面でのASDの行動は、ASDの特性が関係しているという事実さえ知っていれば
ただ単にASDらしい行動をとっているだけ
とも言えると思います。その特性というのが
- 興味関心に強い偏りがあるため、興味のない会話や集まりには、その場に合わせることよりも自分の興味に思考が向ってしまう
- 正義感が強くあるため、相手の立場よりも自分の中にある正義感の方を優先してしまう
というところなのです。ですので、決して空気を読まない訳ではなく
意外とその場の空気は把握していて、実は把握した上での行動
と言ってもいいかもしれません。ただ、その行動が時に行き過ぎてしまうことがあり、その上、同調圧力が強い場面でも、平気で単独行動をすることもある為に目立ってしまう、周りをヒヤヒヤさせてしまう、というところはあると思います。
こういった行動が日常的にある為、ASDは空気を読まない、そういうマイナスイメージで捉えられがちな印象として残ってしまうのだと思います。
人に興味がない為に起こる言動とは
ASDの行動パターンには、ASDにある特性が大きく関わっています。先程挙げた、興味関心への強い偏りも、正義感の強さも、その特性自体があるからこその行動に出てしまう、ということなのです。
そしてもう一つ、ASDの言動、ここに直結してくる特性としてあるのが
人に興味がない
というものだと思っています。ただ、厳密にいうと、興味を持てない人に対しては恐ろしく興味がない、というものであって、全ての人に対して全く興味がない訳ではないのです。
わたし自身、この特性がわたしの言動に結びついていると自覚したのは、ASDだと診断されてからでしたので、それこそ最近まで、全く気づいていませんでした。実はこの時の言動は、お互いにとってプラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともあるのです。
具体的にどういう言動を指すのかというと
基本的に、興味を持てない人には恐ろしく興味がない、というところから、相手にどう思われようがあまり気にしない為に、平気で正直に思うところを言ってしまう
というものです。正直に言う、とだけ聞けば特に問題ないのではないかと思われるかもしれません。それはその通りで、もちろん問題なく、相手から「わかりやすく言ってもらえてよかった。」と、その時のASDの言動で、お互いにとっての問題解決に繋がったりする時もあります。
ただ、マイナスに働いてしまう時もあります。その場面というのは
- 今はその発言は控えた方がいいという状況でも平気で言ってしまう
- 相手によっては、正直すぎるその発言はショックを与えてしまう
といったものです。発言した本人は案外ケロッとしてしたりするのですが、周囲が、または相手側からすれば困った状況になっていたりします。この時のASDが”空気を読まない人”、と思われる言動としてあるのだと思います。
経験値と対策でカバー出来ることはある
ASDは場の空気を読まない、と思われていても
実は人の気持ちは深く読み取れたりします
ただ、その後の行動がマイノリティである、ということは言えると思います。それでもわたしは、ASDであってもさまざまな経験から、ある程度その場に合わせた言動は取れると思っています。ただ、このことを実現していく為には、自覚と、そのことに取りもうとする意識は必要です。
わたしは過去に、人に興味がないというところでの正直すぎる言動で、相手を困惑させてしまったことは何度もありました。その時に実は後になって「あの時の発言はあの人にはもっと違う言い方がよかったかな…」そうやって、気づいてはいるのです。というのも
視覚優位のわたしは、その時の映像が後になってもしっかりと思い出すことができます。そして、人の気持ちは相手の表情や雰囲気から、ある程度、読み取ることもできるからです。
そういった経験を重ねると、あることが出来るようになります。それが
相手をじっと観察し、ある程度その人の性格を読み取ることをしてから、または、その場に集まっている人たちがどういう人たちなのかを見てから発言する
というものです。こういうことは、ASDではない人からしたら、当たり前に出来ることなのかもしれませんが、ASDのわたしには
当たり前に出来る感覚もなければ、その必要性も感じていないからこそ、マイナスイメージを持たれたり、相手を困らせたくない、その思いから頑張らないといけない部分だったのです
当時はASDだと自覚のない頃でしたが、自覚がなくても、子供の頃から同じような経験はたくさんあった為に、この方法をとった時も、わたしがわたしとして何とか生きていく為にはどうしたらいいんだろう…という思いからだったと思います。
ASDの特性はそのままに
ASDはマイノリティだからこそ、現実社会の中で、またはマジョリティの中でASD自身が困惑することは多くあります。今回の内容のように、”人に興味がない”という特性から”空気を読まない人”と思われることもそうだと思います。
だとしても、お互いにとって結果的に辛い状況になってしまうのであれば、ASDも改善出来るところは改善し、相手にもASDの理解を持ってもらう、というこの両方が必要だと思っています。ただ、改善といっても
ASDの特性は、生き辛さに繋がるものも多いですが、決して無くしてしまってはいけないとも思っています
実際わたしは、今ではある程度相手や状況を選び、言葉を選んで発言することをしたり、または敢えて発言をしない、ということをしたりしていますが、そういう時ばかりではなく、わたし自身のままで発言することも、もちろんあります。
そのことで相手にもわたし自身にも、ストレスを抱えない関係性を作れています
それはパートナーであったり、親友であったり、同じ感覚を持ち合わせている人だったりと、限られてはいますが、わたしが言いたいのは
それでも合う合わない、という関係性はあります。そういう時は、関係性を見直すこともあっていいと思います。ただ、その時に出会った、難しい人だと感じたASDがいたとしても、そのたった一人のASDが、全てのASDに共通して同じだとも、思わないで欲しいと思っています。
ASDと一括りで言っても、一人一人違いがあるように、定型発達の人にも一人一人違いがあると思います。そういった事実を受け入れ合いながら、関係性を築いていけたらと思っています。
最後に
わたしは自分でも思いますが、どんなにマジョリティの人たちの中で頑張っても
ASDはどこまでいってもマイノリティな人種であって、そこは変わらない
そう感じています。ただ、マイノリティだったとしても一定数はもちろんいます。
わたしは、わたし自身はASD当事者です、というところからブログやYouTubeを始めたことで、実際、対面で会って話したというわけではないにしても、同じASD当事者の方、またはASD傾向のある方、ADHDの方とたくさん出逢わさせていただき、それぞれの考え方や感覚を知ることで共感し合える、ということを本当にたくさん経験しました。
そういった中で”共感”、この部分はとても大切だと思っています。
共感が生まれることで、また、外の世界で頑張ろうと思えることもあるからです
このことからも、共感し合える”安全地帯”のようなものは、これからもっと必要になってくるのではないかと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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