ASDのわたしが学生の頃に好きだった教科に共通していること
視覚化しやすい教科+先生の熱意
わたしには学生の頃、それまで特に興味なんてなかったにも関わらず、授業を受ければ受けるほど、のめり込んでいく教科というものがありました。それを一番感じたのは、中学生の頃の
- 世界史
- 日本史
- 科学
これらの科目でした。ただ最初は年号を覚えるだけ、暗記をするだけのものと思い、面白くなさそうな教科だと思っていました。ところが
これは面白いかもしれない…
そう感じたある瞬間から、どんどんと頭に入ってくる、記憶できるのを感じたのです。それがどういった瞬間だったかと言うと
先生が熱く語ってくれるその世界が、壮大な映像となって、わたしの頭の中に映し出された瞬間でした
映像化される世界が、鮮明であればあるほど面白いと感じ、同時に記憶することが出来たのです。
もう少し詳しく言うと、視覚化しやすい世界が一番、記憶しやすく、おもしろかったたのです。そして、それと同時に、ASD+HSP的な感覚としてわたしにあったのが
先生自身がその教科を心から楽しんで教えてくれている
こういった、先生自身が楽しみ、その教科に対する熱意を受け取るのが好きだったんです。厳密には、受け取るというよりも、移ってしまうという感覚だったかもしれません。中学生の頃の世界史・日本史・科学の先生に関しては、本当にその教科が、その先生自身が好きなんだという感覚は伝わってきていました。
世界史の先生に関しては、先生の服装も自由だったにも関わらず、毎回、深い紺色のスーツに何故か薄い茶色のサングラスをかけた、悪い寺尾聡風の先生でした。見た目そのままに、怒るとチョークは飛んでくる、口も悪い先生で、かなり厳しい先生でしたが、世界史の授業の内容は、先生が語れば語るほどその世界に引き込まれていく、その世界観が広がっていくとても面白い時間でした。
日本史の先生はというと、女性の先生でしたが、その先生がいつも話してくれていた、日本史の余談のようなものがあり
「この話、ほんとにおもしろくない?!。」
そうやって熱心に話してくれるの時間が、本当に好きでした。
その話と同時に、映像が鮮明に、映画のように入ってきていたからなのです
科学の先生に関しても、先生自身の科学を好きだという思いと、細胞の写真など、映像化されやすいものが多かったので、とても記憶しやすかったのを覚えています。
当時のわたしは、自分でも世界史・日本史・科学に関して、どうして覚えやすいのかを、わからないでいましたが、今思えば
視覚化しやすい教科がASDのわたしの視覚優位の部分に働きかけたからなのです
その部分にプラスされていたものは、わたしのHSPの部分でもある
- 先生の中にある”本当の熱意”に答えたい
- サラリーマン的に教えている先生には答えたくない
こういった、どこか冷めた、先生の中にある”本当の熱意”にわたしの感情も比例していたというところもあったのです。だからこそ、当時は”めんどくさい生徒”として扱われ、嫌な思いもしたこともありました。
逆に凄く苦手だった、記憶できなかった教科とは
視覚化しにくい教科と暗記だけの教科
わたしにはもちろん、得意な教科があれば、凄く苦手な教科もありました。それは高校生になってからはっきりと出だしました。それというのは
古文・漢文でした
古文・漢文に関しては、目の前にある漢字や文を構成するパターンを覚えるだけで、その後ろに広がる世界が見えにくかったからなのです。
わたしにとって”ただの暗記”ほど、苦手なものはありません
日本史や世界史、科学に関しては、毎回ほぼ満点か、それに近い点数でしたが、古文・漢文に至っては、赤点のオンパレードでした。このことからも、視覚優位のわたしにとっての苦手とする教科は
絵になって想像できにくい パターンを覚えるしかないものでした
他にもあった得意・不得意に共通しているもの
視覚優位のわたしには、他にも苦手とするものがありました。それは
- 電話番号を覚える
- 人の名前を覚える(対面で顔を見ながら名前を教えてもらえると覚えられます)
これらは今でも苦手です。やはり”ただの暗記”は本当に難しいのです。その他にも、ASDの中には暗算が苦手という方もいますが、わたしの場合、子どもの頃に”そろばん”を習わせてもらったおかげで、子どもの頃は逆に
頭の中にそろばんを置き、それを頭の中ではじいて計算することが出来たので、暗算は得意な方でした
もし暗算が苦手なASDの子どもたちがいれば、わたしの経験から、そろばんを習い、使うのはお勧めです。視覚と、指を使うという動作も入るので、苦手だと思っていた暗算が、スラスラと解けるようになるかもしれません。
そして得意だったものの中には
- 書道
- 数学の証明問題やグラフの問題
これらもとても好きでしたし、得意分野でした。書道に関しては、文字を書くというよりも
一つの作品、絵として見ていました
その一つの作品を、筆を使って書き仕上げる、という動作がプラスされていたので、その楽しさにのめり込みました。
数学の証明問題は、x・yという記号をたくさん使って埋め尽くされていく、その答えが出来上がった時には、それも書道と同じく
記号がたくさん並んだ一つの作品が出来上がったようなうれしさがあったので、スラスラと解けていました
このようにとにかくわたしには
どんな時でも視覚的なイメージがわたしを助けていてくれたのです
早いうちから自分にある特性を知ること
わたしは、わたし自身が視覚優位と知ったのは、学校もとうの昔に卒業し、子どもたちが生まれてからでした。ただ、学生の頃に視覚優位でASDであることを自覚していれば、苦手な教科に対してもっと、対策がとれたのではないかと思っています。もちろんそれは、社会人になってからでも使えたと思います。
ASDの中にはずば抜けた記憶力の持ち主の方もいて、得意・不得意関係なく、見るだけ・聞くだけで記憶してしまうという方もいます。実際、わたしの母に関しては、ASD要素も強く、そしてずば抜けた記憶力を持つ人で、学生の頃は首席で卒業し、一人しか受からないという、特別な奨学金を受けられる試験にも受かったような人でした。
ただ、娘のわたしには母のようなずば抜けた記憶力ありません
ですので、当時のわたしには、ASDの自覚無しに自分の苦手をカバーできるほど、具体的な対策は取れずにいました。そんなわたしの解決策はいつも
とても困り果ててから考えるので、行き当たりばったり的なものばかりでした
もちろんカバーできたものもありますが、視覚優位と知っていれば、もっと出来ていたとは思います。このことからも、早いうちから自分を知り理解し、そして特性を知っていくことは、何よりも、誰よりも、自分自身を助けてくれるものだと思っています。
最後に
ASDであるということ、またはその傾向があるということを自覚するということは
- 自分はどうしてそのことが得意なのか
- 自分はどうしてそのことが苦手なのか
この”どうして”の部分を知れることだと思っています。わたしはこの”どうして”というところを知ることが大切だと思っています。
ASDの自分にある才能や能力が、他と比べてずば抜けたものではなかっとしても、自分の中にある小さな”どうして”を知るということは
- 自分への理解に繋がり
- 自己肯定感にも繋がり
- 得意や苦手も両方、受け入れられるようになっていく
そしてその事実を知らなかった頃の自分には無かった、何となく生まれてくる”生きやすさ”というものを感じられるということに繋がっていくことだと思っています。
もし今、どうしてわたしはこうなんだろう…と自分の力ではわからず悩んでいる方がいるとしたら、わたしの経験からそれは、自分自身を知らない自分がいるだけ、ということに気づき、そしてもし知ることが出来たら
今までの自分はダメな自分ではなく、そういう自分なんだ
ということを前向きに深く落とし込み、自信をゆっくりとでも取り戻してほしいと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
コメント