ASD ”一歩目”のハードルだけが高すぎる

発達障害

ASDは”一歩目”のハードルだけが高すぎる

ASDの”一歩目”について回るのは強い恐怖心

わたしにとって経験したことのない、初めてのことに関してはとにかく

常に強い恐怖心がついて回ります

それは子どもの頃からずっとそうでした。

わたしは小学校1年生から習いだした書道が、とても好きになりました。書道を始めるきっかけは親が決めたものだったのですが、それでも結果的には、高校を卒業するまで続けました。

ただ、初めて書道教室に行くことになった日は大変でした。わたしの家のすぐ近所が書道教室だったにも関わらず

一人で行くのは絶対無理と母に泣きそうになりながら訴え

その結果、母にしがみ付きながら書道教室まで行き

先生が出てきてくれても、母親に隠れたまま、先生の顔もちらっとしか見ない

もちろん一言も話さないまま、母が代わりに挨拶をしてくれて

初めての教室に恐る恐る入っていったのです。その時は、なんとも言えない恐怖心と不安感、ただただその気持ちに押しつぶされてしまって、何が何だかわかりませんでした。それでも

その恐怖心を乗り越えた先には”これは好き”と思える世界があったのです

ある程度、自分に強制しないと超えられない

わたしが通っていた書道教室は、先生のお家の玄関から中に続く細い道を少し歩き、その先にある階段を上がった先の2階に書道教室がありました。

わたしにとって何故か教室に入るまでの、その道のりが恐怖だったのです

ただ、なんとかして教室に入ってしまえば、大好きな書道が出来る、ということは自分でもわかっていました。

その当時、わたしの親は自営業を営んでおり、とても忙しかったこともあり、毎回、母に付き添ってもらえるという訳ではありませんでした。そうなると、どうしてもわたし一人で、教室まで続く恐怖の道のりを行かなければいけません。そこでわたしは自分自身に

無理矢理にでもわたしの体を教室まで運ばないと…

そう思ったのです。そうやって自分に対し強制的にでも行動しないと、勝手に生まれてくる、とてつもなく大きな恐怖心を拭えなかったんだと思います。言うなれば、どう考えても超えられそうもない壁が目の前に立ちはだかっている、という状態を

どうしたって超えないといけないらしい…

と、どこかで覚悟をしたのです。

それからは、泣きたい気持になるのを抑えながら、「えいっ!。」という気持ちで教室まで小走りで通り抜けていました。最初の何回かは、息も止めて通り抜けていました。なんとなくそうした方が、行けるような気がしたからです。ただ

その一歩にある恐怖心を乗り越えてからは、その恐怖心がずっと続くということはなく、案外、すんなりと行けるようになったのです

その後は、学校が嫌いで楽しみがなかったわたしにとって、週に2回、大好きな書道教室に通うのが楽しみとなり、いろんな賞もいただくことが出来ました。

他の人とは違う”一歩目”

ASDは最初の”一歩目”だけが異常に高い

わたしにとって”一歩目”のハードルの高さは、どんな場面においてもそうでした。

例えば、パティシエのお仕事をしていた頃、上司からメニューを全部考えて欲しいと初めて言われた時には、自分に任されたうれしさややる気よりも、不安と、わたしの中にある白黒思考から、任せてくれた上司に対して100%満足してもらわないといけないという思いに駆られ、夜も眠れないほど、自分の中に湧き上がってくる恐怖心と闘いながら、メニューを作成していました。ただその時でも

何とかこれを乗り越えたら、後は楽なはず…

そういう思いは、それまでのわたし自身の経験から、何んとなくわかっていたので、完成させることが出来ました。そしてその時も、完成させたメニューはわたしが作ったものでしたので、仕事はメニューを変える前よりも、ある程度自分のペースで動けるようになり、ストレスは確実に減ったのです。

このことからも、定型発達の人が一歩、二歩と同じ歩幅で超えていけれるものが、ASDにとって

”一歩目”のハードルだけが異常に高すぎるけれど、その”一歩目”さえ超えられれば、後は意外に簡単に、そして自分のペースで進んでいけるのです

そして、その一歩を思い切って超えてみると、自分が望んでいた景色が広がっていたり、思ってもみなかったうれしいと思える世界が待っていたりするのです。

押しつぶされそうな恐怖心は超えれば無くなるもの

定型発達の方にとっても、初めてことにはもちろんプレッシャーや不安感を感じると思います。それと何が違うのかと言うと、ASDにとって”一歩目”のハードルの高さと恐怖心というのもは、出来れば逃げ出したくなる程、その恐怖心から仕事すら辞めてしまうことを考えてしまう程、度を越えているというものなのです。

度を超えているからこそ、その恐怖心にとらわれ過ぎてしまい、その一歩は超えていけるものだということを忘れてしまっているのです

わたしは小学校一年生の頃の「えいっ!。」という思いを、今でも忘れていません。他の子は当たり前のように教室に入っていく中、わたしにとってそれはとても勇気のいることでした。それでも

超えられれば恐怖心はいつの間にか無くなり、スルスルと自分の好きな世界に入っていける

そういうものだということも、経験したのです。

背中を押してあげて欲しい、超えてみて欲しい

わたしが特にASDの子どもたちに思うことがあるとすれば

行ってみたいと思う世界への最初の一歩を、怖くてもいいから踏み出してみるということです

怖い…自分には出来ない…そう諦めそうになっているASDの子がいたら、その時は親が、大人が背中を押してあげて欲しいと思います。

その一歩は超えられるからです

たとえそれが結果的に自分の思うものではなかったとしても、それは失敗ではなく、経験です。そういった経験は一つでも多い方がいいと思っています。その経験の中から、自分の好きを見つけていって欲しいと思っているからです。

”一歩目”に対して強い恐怖心がある自分がいても、超えられる自分もいるということを経験していければ、それはいつか、そのこと自体を乗り越えられる自分になっていきます。

自分の目の前に置かれたハードルは永遠に高かったとしても、いつまでたっても恐怖心がついて回ったとしても、その高すぎるハードルを越えられる自分になっていくということなのです

恐怖心と闘いながらでも経験を積み重ねた自分がいれば、いつの日かその先にある可能性を見ながら進んでいける、という変化に気づき、歩みを止めさせない自分が新たに生まれてくるのを、実感できる日が来ると思っています。

最後に

ASDであってもそうでなくても、自分にある才能や能力を活かした人生を歩んでいけることが理想だと思うのは、同じだと思います。そうだとしても、わたしがどうしてASDに高い望みを持ち、才能や能力を活かしていくことが大切だと伝え、そう思っているのかというと

ASDは才能や能力があったとしても、油断すると無意識的に、その才能や能力よりも自分の出来ない部分、苦手な部分にフォーカスし過ぎてしまうからなのです

このことは決して、自分自身に、または周囲がASDに対して過剰な期待をかける、ということではなく、不安や恐怖心が大きすぎるが故に、常に自分をフラットに保つ為に必要だと思っています。

ASDだから大成する、ASDだから才能を持っている、というように言われていることは、確かに事実だと思います。ただ

  • その人にとっての大成とは何なのか
  • その人にとっての才能とは何なのか

その部分は個々に見極めるものだと思っています。自分の能力を活かす仕事に就けることも、趣味を全うし続けることで、一人の人のお役に立てたりすることが出来たりするのも、それは立派な大成だと思っています。

アインシュタインのような、スティーブ・ジョブズのようなASDもいれば、世に出ていなくても、自分の得意を活かし、継続し、自分だけの生き方を全うしていくということが出来れば、その形はどうあれ、わたしは同じだと思っています。

情報に流されず、自分自身を知り、探求し、自分だけの生き方を見つけていくことが、ASDにとって大切な事だと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。

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