子どもの頃の”ごっこ遊び”が苦手だったのは”想像力”が関係している
集団の中で遊びたくなかったその理由とは
わたしは子どもの頃から協調性がなく、ひとりを好む子どもだったので、幼稚園の時、または小学校でも学校が終わると、ひとり遊びで過ごすか、もしくは遊ぶとしても1対1だったりしていました。
ただそれでも、同級生の女の子数人に誘われて一緒に遊ぶこともありました。その人数が4~5人くらいになってくると、大体が
- その小さなチームでどういう遊びが出来るか
- みんなで一緒に遊べる遊びは何か
ということを、子どもたちは考え始めます。わたしはこの時点で、もう帰りたくなっていました。友達が嫌いという訳ではありません、友達一人一人は好きなのですが
みんなと一緒に何かをしないといけない
こういう集団の中の一人として遊ぶという流れがとてつもなく苦手だったのです。
というのも、その時にわたしが何を感じていたというと
わたしの自由が奪われる…
これほどまでに強く、否定的な感情が生まれていたのです。それでも、その頃のわたしは嫌々ながらもそんな気持ちを隠しつつ、一緒に遊ぶことをしていたりもしていました。それがどうしてかというと
- 他の子たちは全員楽しそうに考えているから、きっと楽しいものなんだ
- もしかしたら、やってみたら楽しいと思えるかもしれない
そうやって自分に湧き上がってくる感情は、わたしだけのものだから、それは”おかしいものなのかもしれない”そう思っていたからなのです。
”ごっこ遊び”で与えられた役が出来ない
ASDはマイペースを崩されることをとてつもなく嫌がる
ある程度の年齢になってくると、数人で集まって遊ぶ中の一つとして”ごっこ遊び”があります。わたしはこの”ごっこ遊び”を楽しいと思ったことがありませんでした。
当時よくあったのが”お母さんごっこ”というもので、あなたはお母さん役、そしてあなたはお父さん役、あなたはお兄ちゃんで…というように、友達同士で家族を作るというものでした。その時に、もちろんわたしにも役割が与えられます。ただ、役割を与えられてもその時のわたしは
いったいどのように立ち振る舞えばいいのかが全くわかりませんでした
でも友達たちは、お母さんになり切り、お父さんのような口調やセリフを話しています。わたしは、何とか周りに合わせようと、自分の役を演じようとするのですが
とてつもない違和感に気持ちがついてこれず、結果、いつも途中でやめてしまっていました
具体的にその時にわたしが何を感じていたかというと
- 自分以外の誰かになりきることが想像できない
- 誰かを想像して”真似は出来る”けど、その真似をする対象がみつからない
例えばそれは、わたしは2人姉妹の妹なので、お姉ちゃん役が与えられたら、わたしの姉を想像してなんとなくこんな感じだったかな…と”姉を真似る”のです。ただその時に、弟役立ったり、お父さん役だったりするような、知らない、またはあまり想像できにくい役だったとしたら、お手上げでした。
そしてもう一つ、わたしが嫌だと感じていたのは
マイペースを崩されることでした
”ごっこ遊び”では、自分以外の誰かにならないといけません。もちろん友達たちは、その自分以外の誰かになりきることを楽しみます。だた、ASDのわたしにとって自分以外の誰かになるということは=自分自身で自由に動けない、ということに繋がっていました。ですのでそれがマイペースに過ごせないという、ASDにとって苦痛を感じる結果になってしまっていたからなのです。
他の子たちとは違う”想像力”とは
リアルが伴わない想像は難しい
わたしは”ごっこ遊び”をしている友達たちを見ていて
本当のお母さんでもないのに、お母さんなんて思えない…
いつもそうやって、わたし自身もごっこ遊びの中に入っていながら、常にある完璧主義な視点から、どこか冷めた自分で友達たちの行動を観察していまいした。実はもう一つ、この感情の中にあったのは
リアルが伴わない想像は現実のものと結びつきにくいからこそ想像することが難しい
というものだったのです。それというのは、ASDのわたしの想像力と、他の友達の想像力の違いにあったのです。
ここで、わたしが衝撃を受けた発達心理学者の内田登紀夫先生の、想像力についての一文をご紹介したいと思います。
”経験の断片の単なる『再生』ではなく、新しい文脈の中に創造的に組み込まれ、元の形が変容する”
これが健常な子どもの”ごっこ遊び”だと書かれてあったのです。この一文で、わたしがどうして”ごっこ遊び”が嫌いだったのか、出来なかったのかが理解できたのです。というのは、周りの友達たちは想像する中で”元の形が変容する”ということが出来るのです。だからこそ、気持ちのこもった役になりきることが出来るのです。その点わたしはどうだったかというとまさしく
ASDの息子の想像力も『再生』
レゴブロックの遊び方
ASDの息子は、2歳になったころからレゴブロックが大好きでした。レゴはわたしのパートナーも子どもの頃に好きだったことから、息子によくこのような事を話していました。
「レゴは説明書通りじゃなくても、自分が作りたいものを想像して、何でも作れるんだよ。」
ただ、息子のレゴの遊び方は
一つのアレンジも入れることなく、説明書通りに完璧に仕上げる
というものでした。そして説明書にある作品を一通り作り上げると、そのレゴで遊ぶことはありませんでした。ただ、ある日。息子が説明書を見ないで作った作品を、うれしそうに見せてくれたことがありました。それが何かというと
当時、何度も好きで見ていた”スターウォーズ”に出てくる宇宙船だったのです
その宇宙船が完全にコピーされて作られていたのです。それからも息子が想像して作るレゴは
自分の中の記憶にあるリアルなものを想像し、それを『再生』する
というものでした。
記憶の量が想像の世界を広げていく
これは私見的な見方ではありますが、ASDにある想像力というものは
自らが経験してきた現実のものを大量に記憶し、その中の記憶を変容させていくのではなく、組み合わせて作っていく
こういうものだと感じています。ASDには想像力が無いと言われていますが、無いのではなく、一般的なものとは少し違っている、ということだと思っています。実際、ASDでも素晴らしい絵を描く方もいます。その絵を見ていると、想像力がないとは到底思えません。それはきっと
他の人よりも感じやすい感性やこだわり、細部に対するすぐれた注意力から取り入れてきた、膨大な記憶をうまく使いこなし、表現として活かしている
そのように感じられるのです。今回のわたしの子どもの頃の”ごっこ遊び”にしても、他の子どもたちとの想像力の違いから楽しめなかったのです。こういったASDにある想像力についてを理解していれば、それこそ子どもの頃から自分の好きな遊び方を真っ直ぐに探究出来ていくのではないかと思っています。
最後に
わたしは未だに、息子のお友達の保護者の方と話す時、デイサービスのスタッフの方と話す時に、同じことを繰り返し言ってしまったり、話の内容からズレてしまったりします。その度に
あぁまたやってしまった…
と思うことはあります。それでも今は、過去のわたしとは違うと思えることもあります。
過去のわたしは、上手くできない、いつもこうだとネガティブに思う自分にいつも支配されていました
今のわたしは、もちろん失敗、反省のたくさんある自分だけれども
その自分以外に何かを探求したい、他のことで楽しめることがあると思える自分がいる
そう思えるようになったのです。この両方の思いは、どちらかに偏り過ぎていると、それは自分を見失ったり、生き辛さとなって自分を苦しめるものになると思っています。
ですのでわたしが、ASDにとって大切だと感じていることは
ASDの障害からくる苦手や出来ないことに対して、開き直るのではなく、自分に合った手段を考え実践していきながら、それを受け入れていく
それと同時に
面白そうと思ったことには、その時間を少しでもいから作り、自分のバランスを取る大切なものだと思いながら続けていく
この2つを同時進行でやっていくことだと思っています。ASDやASD傾向のある方で、そんなこと簡単に言われても出来ないと思う方もいるかもしれませんが、それはもちろんASDに限らず、どんなことでも急には出来ないと思っています。
わたしもそうでしたし、もちろん今でも下手です。ただ、やはり思っているだけではダメだし、やってみたら以外に出来た、ということも多いんです。落ちる時もありますが、落ちてばかりでも辛いのは自分です。
自己肯定感が無理なら、自己受容感でもいいから、その部分を少しでもてる自分を置いておく、ということかなと思っています。そう意識していくうちに、この両方のバランスが取れてくれば、本来の自分というものが見えてくると思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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