ASD 大人のASDは「懸念」されやすい?!

感覚過敏

ASDにある“大前提”とは

わたしは40歳を過ぎてからASDだと診断されました。その当時、ASDは障害であり、定型発達の人たちとは違いがあるということに納得し、ある意味それまでの辛い経験から救われたような感覚がありました。

これで堂々と「わたし自身」として生きていける

努力ではどうしても出来ないこと全てを障害のせいにしようとは思わないけれど、それがどうしてなのかを説明することは出来る

そう思い、目の前の世界が開かれたと感じました。そのことでわたし自身もASDについて更に学びを深め、何冊も本を読み、わたしの主治医の先生とは今でも診察の時には1時間ほど話をし、その他、自分で調べた発達障害に詳しい著名な先生の動画を何本も見たりしました。ただ、こういった学びを進める中でわたしが感じたのは

「ASDはマイノリティ(少数派)」だというこの“大前提”があまりにも知られていない

というものでした。そこには、ASDについて何となく広く浅くは知られているけれど、広く浅くの知識だからこそ、そこまで真剣に対応して貰えない。または全く知られていないからこそ、どうしても咄嗟に多数派の人たちの中にある「これが普通」という認識で対応されてしまう、という事が起こっているのだと感じました。例えば特性上起こっていることでも

  • 自分勝手なこだわりだと思われては、ただ単に扱いにくい人だと言われてしまう
  • 感覚過敏を理解してもらえない「それくらい大丈夫でしょ。」なんて言われてしまう
  • 興味関心に強い偏りがあっても、それが自己中心的だとみられる
  • 会話は情報収集にしか興味がない、というところも、雑談に参加しようとしないことで空気のよめない人だと思われてしまう
  • 相手に対して純粋に「良かれと思って」取った行動が、結果的に距離感が分からず引かれてしまう

ただ、この様なことは全て

多数派の人達の認識が基準で起こってしまうことだと思っています

そうだとしても定型発達の人たち、多数派の人たちからすれば、ASDに起こる困り事の様なことは、わざわざ考えなくてもできてしまう、むしろ雑談なんか楽しんだりする。人との距離感も、上からにならない様な言い回しも、敢えて誰かに教えてもらわなくても自然と身についている、というものだったりすると思います。だからこそ、無意識的に自分の中にある“普通と思っている基準”、ここを基に判断してしまうのも当然です。

ASDが定型発達の人達と違う特性を持って生きてきたように、定型発達の人には定型発達の人の考えや意識を持って生きてきたからこそ、仕方のない部分もあると思います。ただ、ASDには子供の頃から細かく一つづつ教えてもらったり、自分のことを言語化する、という習慣が身についていないと大人になっても、どんなに歳を重ねても出来ないことがあったりするのです。そうだとしても、そこに悪意がある訳では全くなくて、純粋に分からない、出来ない、というだけのものなのです。

“無知”からくる生きづらさとは

わたしはもう40代半ばになるのですが、そんなわたしの親世代、またはわたし自身も含め同世代の人達がこれまで発達障害について、ASDについて学ぶ機会はどれほどあったでしょうか。

子供の頃からASDだと理解されながら育つ

子供の頃からASDだと理解されずに育つ

この違いはASDが大人になってから、その後の生き方に大きく影響してくるものだと思っています。ただ、そこには「時代の流れ」も大きく関係していたのは確かです。

今の大人のASDの人の中には、その事実を本人も親も知らずに育ち、そして理解されないことを多く抱えたまま大人になって、社会に出て、そして同世代、または親世代の人たちの中でまた、理解されないことを抱えたまま生きてきたという人は多いと思います。その結果、どのようなことが起こってしまうのか。例えば私の場合で言うと

コミュニケーションが他の人よりも苦手で、それをひた隠しにして必死に頑張ろうとしても、そのやり方がわからない。何をどう返していいかわからないから、黙り込んでしまうしかないことで、結果的に相手を困らせてしまう

または、ただ言われたことをそのままに、真面目に取り組んだとしても、完璧主義や字義通りにしか理解できないことを知られていない、そして自分も知らないからこそ、何をどう頑張っても“融通が効かない”仕事をしてしまう

その結果、恐ろしいほど疲れ切る毎日を過ごし、そしてまた次の日も同じような日をやり過ごすのです。もちろん全てのASDがそうだとは言えませんが、この様な現実がわたしと同じ様な同世代のASDの人達が抱える問題の一つだとは思っています。その大きな原因としてあるのは

  • ASDの特性が大雑把でしか知られていない
  • そもそもASDに関して「無知」である
  • 関係性がある相手がASDだと知ったとしても、ASDについての詳細を知らないままであれば、どうしても多数派の人たちを基準にした意識の上で比べ、判断されてしまう

やはりここではないかと感じています。だからこそ簡単に嫌な顔をされる、懸念されてしまいやすい。ただ、ASD自身に起こる生きづらさや問題は、周りの人達だけが原因ではなくて、自分自身にもASDという自覚がなかった、知らなかった、というところも大きな原因だと思っています。自分自身も自分のことをまず知らないと相手のせいにしたり、言い訳で押し切ろうとしてしまうことも起こってしまいます。こういった原因がいくつも重なった状況の中では、ASDはただただ

自分に出来る手段で少しでも改善出来る方法を試行錯誤したりして、言ってしまえば“自分の力で何とかしていくしかない”という状況に追い込まれます。

ただ、自分で何とかしていくしかないといっても、一人の力では限界があります。限界を感じた時には、というよりもできれば本当は限界だと感じる前に、

発達障害が専門の先生や、ASDに理解のある人達の協力を頼る、相談する

ということをして改善していくという方法をとってもらいたいと思っています。

本当は誰だってありのままの自分で生きていきたい

わたしは今でも正直、わたし自身がASDであるということを他人に話すことを躊躇する時があります。それがどうしてかというと

まだまだASDに対してのイメージが良くない人達が多くいるのを知っているからです

もちろんその背景には、ASDとの関係性で大変な思いをしたり、歩み寄ってもASD側の方が理解を示そうとしなかったり、この様にASD当事者ではなくASDと関係していた人自身が辛い思いを経験したから、という事実もあったからだと思います。ただ、長年に渡りこの様な事実が蓄積されていたとしても、ASDのわたし自身の本心は

ASDという障害を持ちながら、ありのままの自分で堂々と生きていきたい

というものです。そうはいっても、このことが時には受け入れられない事もあると思います。そういう時には関係している人がただ“ASDについて知らなかった”という状況もあると思います。だからこそASDの特性に関しての詳細な情報を発信し、そして知ってもらい

ASDは少数派であり、定型発達の人が大多数を占める現実社会の中で、不器用だと見られることもあるけれど、必死で生きているASDはいる

という事実を、理解することが難しかったとしても、少しづつでも受け入れてもらえたらと思っています。本当はASDであっても定型発達であっても、ありのままの自分で生きていきたい、この思いは同じだと思います。それぞれに違いがあっとしても、その事実をお互いに受け入れ合えれば

  • お互いに自分を飾ることなくシンプルに楽しめる時間
  • 有意義な会話やコミュニケーション

この様な関係性が可能になることもあると思っています。それでもまだまだ直ぐにとはいかないことも多いのは事実で、ASDの人達はネガティブ思考で付き合いにくい、といったような状況もあると思います。もちろん不安要素が強いからこそネガティブに見えてしまうのは仕方がないのかもしれません。ただその反面

自分に正直で尚且つポジティブなところもあって、人の役に立ちたいと思っている面も持ち合わせているのも事実なのです

そのポジティブな面を出せずにいる、または隠している、というようなASDも中にはいると思います。それがどうしてなのかを考えたことがあるでしょうか。わたしはその答えの一つに

ASD自身が自分を無くして周囲に合わせすぎてしまっている「過剰適応」の状態になっている

というものがあると思っています。だからこそ「ASDとはどういう人達なのかを知る」ここはとても重要だと思っています。

「普通のものさし」とは何なのか

多数派の人たちの中で普通だと思われている「ものさし」でASDと関わると、ASDの人が生まれながらに持っている

「ASDにある普通のものさし」

この部分とどうしてもお互いに譲り合うことが出来なくて、ぶつかってしまいます。意義のあるぶつかり合いならまだしも、お互いに理解しあっていない、知識もない、その様な状況でぶつかり合うのは、お互いに疲弊し切るか、関係性が破断してしまうかしかないと思っています。それは定型発達の人側だけでなくASD側もそう、相互にとって必要だと思っています。

  • 定型発達の人たちの感覚はどういうものなのか
  • ASDの人たちの感覚はどういうものなのか

という知識を持って、「普通のものさし」とは「それぞれにあるもの」という視点で受け入れ合うことが必要だと思っています。そのことが結果的に、自分らしく生きられる道に繋がっていくと感じているからです。

ASDを懸念してしまう前に…

わたしがASDについてのブログやYouTubeを始めてから、ASD当事者の人達からのコメントの他に、定型発達の方からのコメントも沢山いただきました。その中には

  • ASDの子を持つ親御さん
  • 会社の部下、または同僚にASD傾向のある人がいる
  • 夫婦のどちらかがASD当事者、またはASD傾向のあるパートナーがいる

という人達がいます。こういった人達からいただく困りごとや、ASDとの関係性について辛い思いをしているという人の中には、関わっているASDの人とはもう関係性を絶った方がいい、そう思う方も実際います。ある意味、ASD当事者でありながらこのような、冷たいと思われるような考えに至るのは

それぞれに、どんな人であっても、自分の幸せを望んで欲しい

そう思うからです。ただ、そう思っていたとしてもまだまだASDについて知らない人達に関しては

ASDを懸念してしまう前にASDについて、ASD当事者の生い立ちについて、もっと知ってからでも遅くはない、という思いも本当はあります。知れば話し合えることも、出来ることもあるからです。

というのも、わたしは自身がASDだということもあると思いますが、わたしは基本的にASDの人達が好きです。

  • 不器用だけど真っ直ぐに生きていて
  • 子供の頃から変わらず素直で
  • 真正直で正義感が強く
  • それでいて繊細で傷つきやすい

という人達だという事を知っているからです。ただ、こういったところがあたっとしても、その人の人格自体に育ってきた環境が影響していて、純粋にASDの特性だけで見ることが出来ない人もいます。だからこそ、それぞれに合ったサポート体制の中で

ASDという障害が懸念されることなく、ASDその人自身を苦しめない社会

ASDと関わっている人達が苦しまない社会

というものが確立されていけばと今でも、そしてこれからも願い続けています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。

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