ASDは少数派という世界観をどう伝えたらいいのか
ASD当事者が実感した出来事から
少数派ってこんな感じかなのかもしれない
今回は少しテイストを変えて
ASDは少数派だと言わていても、その少数派が多数派の社会の中でどういう感覚で生きているのか、そのことをどう表現したらわかってもらいやすいのかを、わたしなりに考えていたことをお伝えしていきたいと思います
そのことを考えていた時にふと、わたしがパティシエのお仕事をしていた時のことを思い出したのです。わたしが二十歳の頃、チームワークが必須だった大人数の中での本社勤務を数カ月ほど経験したのちに、支店への移動命令が出ました。
その支店先は、大手デパートの地下食料品街にあり、先輩とわたしだけの2人でチームを組んで仕事をする、という環境でした。もちろん、本社との繋がりが全く無くなった訳ではなかったのですが、既に鬱状態が酷くなっていたわたしにとっては、せめてこの場所(大人数でのチームワーク)から抜け出せる、ということだけでも少しほっとしたのを覚えています。
しかも当時、わたしと組んで、いろいろと指導してくれていた先輩は、とても穏やかでやさしい先輩でした。本社の時とは変わらない激務の中にいても、とても尊敬できる方、そして安心感を得れる方だと感じたわたしは、既に精神的に不安定な状態にあったのですが、それでも先輩と環境のおかげで、当時の激務をなんとかやり過ごせていました。
そしてその先輩は”左利き”でした
先輩が仕事で使う道具一つ買うのも特注、その他にもほとんどの使用が右利き用になっている為
- 何かと不便を感じていたり
- 特注の道具が高い
そういつも冗談交じりで話してくれていました。そして、わたしに技術を教えてくれる時も
「ロココの場合だったら、こっちか。(右手に持ち替えて)ちょっと僕がやっても右じゃあ下手だけど、こうやってやるんだよ。」
そうやって、わたしの右利きに合わせて、自ら右手に持ち替えて教えてくれていました。そう教えてくれる先輩に対して、わたしはいつも感謝の気持ちでいっぱいでした。
- わたしの立場で考えてくれている
- わかりやすいように教えてくれている
その思いが伝わったからこそ、そしてわたしもそう感じられたからこそ、その先輩とのコミュニケーションはいつも楽しく、問題なく過ごすことが出来ていました。わたしは同時に
左利きの人というのはこんなに大変なんだな…という感覚を実感できたのです
この経験が、少数派であるASDの世界観を伝えられるのではないかと思ったのです。
世の中の使用がほとんど右利き用に出来ているのと同じで、少数派の左利きの使用に位置しているのがASD、こういう感じなのかなと思ったのです
何をするにも、ほとんどの物事や理解の仕方、感覚的なことは、大多数派使用。ASDはいつもその不便さを実感しながら、試行錯誤したり、または実際、助けてもらえないと難しい。そしてそのことが、左利きの道具のように、あっさりと解決して笑えたらいいけれど、笑えない場面の方が圧倒的に多い、というものなのかもと思ったのです。
どちらかというと、左利きなのに、右手で頑張って作業しなさい、というような場面は子どもの頃からも多く感じていたからです
ただ、当時の先輩とのやり取りから思ったことがありました。それというのは、当時の先輩のように
受け入れてもらえている少数派と、そのことが難しい少数派
それは、家族間であっても同じかもしれません。もちろん、その事を実現するためには、ASDに対しての知識や、その人をよく見ることがどうしても必要になってくると思っています。ただ、ASDは現実的に
左利き、右利きのように、既に当たり前に理解されているもので、当たり前に受け入れられている少数派ではないというところは、難しい面だと思っています
というのも、ASDだと自分では気づいていない方、気づいていたとしても受け入れられない、受け入れたくない、そういう当事者やASD傾向がある方も実際まだまだ多いと思っているからです。そのことに加え、偏見や差別的な見方、こういった現実からも、受け入れられていくのが難しい少数派だということが言えると思っています。
そうだとしても、現実的にこれからの社会において、ASDが持つ専門性に長けた能力を社会で活かしていく為に、そしてASDの方が二次的な問題を抱えずに生きていく為に、ASDの情報や知識、そしてサポート体制は必須になってくる時代になっていくと思っています。もちろん既に受け入れ態勢をとってくれているところもあります。このことからも
知識を得ることはASD側にとっても、ASDと関係している方にとっても、相互にメリットを感じられるものになっていくのではないかと思っています
ただ、ASDとひとくくりに言っても、ASD一人一人違う特性や感覚過敏の有無、症状の程度があります。いろんなASDの方がいるからこそ、そんなことは理想論だと言われるかも知れませんが、そうであったとしても、少しでもASDの理解を広め、大多数の中で生きながら幸せを感じられる世界になればいいと思うからこそ、わたしに出来ることというのは限られてしまいますが、ASD当事者の方、またはASD傾向のある方に向けて、そして関係している方に向けてのASDの情報を発信し続けたいと思っています。
当時の先輩に対して、定型発達だった先輩に対して、それが20年以上前のことだったとしても、今でも感謝の気持ちは変わりません。わたしはわたし自身がASDだからこそ、そう思える関係性を同じASDの方にも感じられる社会になることを願っています。
最後に
わたしはASDについての情報発信をしようと思ったのは
ASD当事者やASD傾向のある方にとって、そしてASDの方と関係してる方にとっても、生きやすい社会に、理解し合える日常になって欲しいと思ったからです
それでも、ASD当事者のわたしが話すことで、ASDに対する批判、ASDの人だけが大変だなんて言わないでくださいと言われることも、実際あります。
その度に思うのは、わたしの表現や情報がまだまだ足りていなかったということです。ただ、わたしと同じASDの方にはもしかしたら共感いただけるかもしれませんが、この瞬間を乗り越えるには、かなりの精神力が必要になります。だからと言って、意見は意見として一旦、受け入れて考えてみることは大事だと思っています。それでも、そいう時に不思議と
いつも動画を見てくださっている方から、共感し応援してくださっている方からの、読んでいて楽しく、さらに学びを得れるような、そして感謝でしかないコメントが届いたりするのです
イエスマンばかりを置きたいと言っているわけではありません。表現の自由があるからこそ、よりよい関係性にしていく為にはどう伝えたらいいのか、ということがどんな時でも大切だとわたしは思っているだけです。
わたしからの表現では、多くの人の共感や理解を得れることは少ないのかもしれません。それでも、共感していただき、そのことで生きやすさに繋がる方が 一人でも、いてくれればと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
コメント