ASD 顔と名前が覚えられない

発達障害

ASDは人のどこを見ているのか

私は未だに人の顔と名前を覚えるのがとにかく苦手です。とは言え、同じように苦手だという人はたくさんいると思います。私自身も、私以外の人たちの苦手だという感覚と同じだと、同じくらいのものだと、ずっとそう思っていました。顔と名前をなかなか覚えられないというところ、この事を問題視しなかったのは、学生の頃はそのことについてさほど困ることもなく、何となくやり過ごせていたからだと思います。

ところが、社会人になってから「顔と名前が覚えられない」という部分が、私の中でかなり大きな問題として浮かび上がってきたのです。学生の頃はどうして困っていなかったのか、それは初めて会う同級生に対して、直接本人に何度か尋ねることをしても「いい加減覚えてよ(笑)」なんて冗談まじりで教えてもらえることが出来ていたからです。では対上司ではどうなのか、となるとそのこと自体が失礼に値する上に、毎日のように長時間同じ職場で過ごす人との関係性において、何度も名前を聞いてしまうということは、その後の関係性も0(ゼロ)からのスタートではなくー(マイナス)スタートになってしまう、ということが起こってしまう事を身にしみて経験したからです。

その他にも、いつまで経っても息子の保育園や学校の先生の名前、息子と同じクラスの子供たちやその保護者の方の顔も名前も覚えられないとなると、思いがけなくばったり会った時に名前が出てこなくて困ってしまう、または顔も覚えらないが故に、会ったことのある人にも関わらず知らない人だと思い、スルーしてしまうことすら出てきてしまうのです。

私は名前もそうですが、顔も覚えられないということは一体相手のどこを見ていたのでしょうか。そのことについて様々な場面から記憶を振り返ってみると、決して相手の顔を見ていない、という訳ではありませんでした。ただ、それと同時に起こっていたことがありました。それというのは、ASDには多いと言われてるのですが視覚や聴覚が強すぎて、そのことで今自分に必要さとされる情報を選択するということが難しい、というところがあります。その事が作用して、とにかくその場の状況にあるものが全て入ってきてしまいます。このことから

相手と向かい合っていたとしてもその他、その周りにある背景までも無意識的に捉えてしまうからこそ情報が多すぎて、注意して見るべき相手の顔以外のいろんな部分に注意が逸れてしまっていたのです

相手の髪型や色、服装、声のトーン、例えば他にも室内であったら、横に置かれている本、飾ってある物、とにかく視界に入るものを全て平均的に捉えては、顔の印象と同じくらいのボリュームでそれらの情報が一気に入ってきてしまうのです。結果的には顔をしっかりと見ていなかった、というよりも顔だけに集中して見ることが難しかったのです。

顔というパーツ以外にも情報が溢れている中で名前を聞かされる、そうなると情報の処理が追いつきません。結果、帰ってから私はいつも「名前は何だったかな。顔はどんな感じだったかな…。」そう記憶を一生懸命辿っても、声の感じは覚えている、髪の色は確かこんな色だった、というような抽象的なイメージしかわからずに、肝心な「顔と名前」の部分は記憶に残っていなかったのです。

人に対しても物に対しても関心は並列

では、どうしてASDは顔と名前が覚えられないのか。そこには情報が追いつかない、情報が一気に入ってきてしまう、というものに加えもう一つ、ASDにある特性が関係していたのです。このことは私自身もASDの事を知るまでは全く自覚していませんでした。ASDには様々な特性がある中でも特に、顔と名前が覚えられない事に関係していたのはこれでした。

人に対しても物に対しても関心は並列

というものです。定型発達の人たちは基本的に物と人がある時には、物よりも人を優先します。ではASDはどうなのかと言うと、人に対する関心も物に対する関心も並列なので、どちらかを優先することなく常に平等に扱ってしまうのです。ということは、定型発達の人たちが無意識的に相手の顔や名前に対する関心を高く持っているが故に、その部分を中心に記憶しようとする、と言うことがASDには出来ないのです。

ただ中には、同じASDであっても人の顔と名前を異常なほどに記憶している、という人も存在します。それは、定型発達の人たちと同じというものではなく、その事自体に興味があるからこそ記憶することが難しくない、というものだと思っています。ASDは興味を引かれることに関しては、驚くほどの集中力と記憶力を発揮するというケースがあります。例えばASDの人の中には、興味のある電車や駅の名前を驚くほど記憶している、という人がいます。そのような人たちと同じ類いだと考えられます。ただそうではない、簡潔にいうと他人の顔や名前にさほど興味を持てないASDにとっては、そのことを記憶することは簡単ではないのです。

例えば私の場合で言うと、息子の保育園の先生方の、と言っても10人にも満たないような数の先生たちの全員の顔と名前が一致したのは、お恥ずかしながら息子が保育園に通い出してから3年程も経ってからでした。もちろんそれまでの間、決して覚えようとしていなかった訳ではありません。お迎えに行った時など、他の保護者の方が先生の名前を呼んでいる時に必死で記憶しようとするのです。ただ、帰ってくるともう既に曖昧な記憶でしか残っていないのです。

だとしても当時は、保育園の先生たちの顔や名前を覚えられなくて相手に迷惑をかけてしまった、という失態は免れていたので、なんとか私にある記憶と入ってくる情報とを照らし合わしながら乗り切っていましたが、若い頃にパティシエとして仕事をしている時はそういう訳にはいきませんでした。緊張感のある職場の中で、私にあった、上司や同僚の顔と名前がとにかく覚えられない、という事実にはちょっとした恐怖心まで抱いていたので、常に小さなメモ帳を持ち歩き、仕事の内容をメモするのと同時に相手の名前と顔の特徴、その他記憶出来るものを殴り書きのように必死でメモを取っては、忘れてしまわないよう対策を取っていました。そして毎回必ず、家に帰ってからはまるで宿題のように、そのメモを整理し直して、顔と名前の記憶を合致させるということをしていました。

解決策は「努力」ではなく「手段」にある

ASDにとって、人の顔や名前を覚えられないという部分に関してそれは、生物学的な特性によるものだという事を理解していないと、いつまで経っても解決には至らないと思っています。

ASDにとって大切なのは、自分にある特性と戦うことではなく、受け入れ、無理に逆らうことなく手段で解決していくことだと思っています

このことからも、相手の顔と名前を覚えることが出来ないのであれば、頑張って記憶しようと自分に言い聞かせてはその様に努力する事ではなく、自分に合った記憶の仕方、手段を探っていくことなのです。間違った努力をすればする程、その時間が長ければ長いほど「思うように出来ない…。どんなに頑張っても無理なんだ…。」などという辛い現実と向き合うことになってしまいます。それは結果的に自尊心の低下にも繋がりかねません。ただ、それはASD本人の努力の問題ではなくやり方、手段を取り入れていなかった、というだけでのもので取り入れることであっさりと解決されてしまうという事もあるのです。

私の場合で言うと、先ほどにもお伝えしたように、とにかく形に残す、メモを取るという事でかなりの改善に向かいました。このメモを取る、という行動がどうして私にとって合っていたのかというと

視覚優位で、聴覚情報処理が苦手という特性が目立ってあったからです

目から入ってくる情報が強すぎる、強すぎるが故に相手の顔の部分だけに集中して記憶することは難しい、その他の情報まで同じ分量で目に映って記憶してしまう。その上、聴覚情報処理が苦手なために、周りに存在する雑音に気を取られてしまっては、相手の話す声に集中出来ずに情報の処理が遅れる。この二つがあったからこそ、記憶に頼る、記憶することを努力する、ということは無理だったのです。当時はASDの特性を意識して行っていた訳ではありませんでしたが、思い付く方法が「メモをとる」という事しかなかったのでそうしていた、というだけのものですが結果的には、目で見て文字で残す、という方法はASDの私にとって“視覚的なところからのアプローチに加え、動作が入る”という、得意をうまく活かせた事で記憶に残りやすかったのだと考えられます。

ちなみに今では「スマホのメモに残す」という方法もありますが、ASDの方にとって本当にしっかりと記憶したい時にはやはり、携帯しやすい小さいメモ帳を持っておいてそこに「字で書く」、という動作を取り入れる方がお勧めです。ただ、自分にはどこに得意があって、というよりもどの部分が強くて、どこが弱いのか、という特性の強弱を見つけることは、自分だけの力だけではなかなか難しいと思っています。

そこで私がお勧めしたいのは、知能検査です。大人であればウェクスラー式知能検査WAIS-Ⅳ(ウェイス・フォー)、お子さんだとWISC-IV(ウィスク・フォー)、こういった検査をすることで、自分の得意・不得意がどこにあるのかがとてもわかりやすく見つけられるからです。実際、私自身も検査を受けたことで自分に対する分析が出来るようになり、私にはやはりこのやり方があっていたんだと納得することも出来ました。このことからも、先ずはASDである自分の事を知る、自覚するということは、日常的にある困りごとを解決していく上でとても重要なポイントだと思っています。

ASDにとって顔と名前が覚えられない、という事実は多数派の人たちが感じるよりも重く、複雑なところから発生しています。ただ、そうであったとしても諦めたり自分を責めたりしてしまう前に、ASD的なところからアプローチをかけてみて欲しいと思っています。きっと自分に合った手段が見つかります。その事で、困りごとの一つであったものが無くなれば、ASDである自分自身に対しても、関わっている人たちに対しても気持ちにゆとりが生まれることで、その後の生きやすさにも繋がるのではないかと思っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。

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