ASDは旅行の時の荷物が多過ぎるその理由とは
慎重すぎる荷造り
わたしはずっと、どこか旅行に行くとなると、たとえそれがたった一泊だったとしても、その荷造りには毎回、とても時間がかかっていました。しかも、その日程が決まった時点から、それが一か月後だったとしても、当日までの一か月間
旅行に持っていくものをずっと頭の中で考えてはリスト化し続け、とにかく一つでも忘れ物が無いように、慎重に慎重を重ねて、ずっと荷造りの頭で過ごします
なんなら日程が決まった日から、少しづつ準備し始めたりします。その結果、いつも持っていくものは、一泊とは思えないほど多くなってしまっていました。それが、どうしてそういった思考になってしまうのかというと
旅行中に想定される展開に対して、その一つ一つにいつでも対応できるようにしておかないと不安なのです
このことに繋がるASDの特性があります。それが
- 不安が強ければ強いほど、こだわりも強くなる
- 一貫性や恒常性に欠け、予測不可能な状態になると困難に陥る
というものです。旅行とはまさにASDにとっては非日常であり、予測不可能なものです。実際わたしは、旅の楽しみよりも、いつもよくわからない不安が大きくありました。
それを無理に、旅行が楽しみだ、という気持ちに向かわせよとしていましたが、そう考えれば考えるほど、荷造りは慎重になり、荷物は増え、当日は緊張と不安からヘトヘトに疲れていました。
現地調達という思考がない
用意して持っておかないといけないと思い込んでいる
実はわたし自身、旅行時の荷物が多いということに、自分では気づいていませんでした。
旅行といえば、いつも荷物が重くて大変…
旅行とはそういうものだと、それが普通だと思っていたのです。実は、その荷物が”多すぎる”ということに気づかされたのは、家族が出来てからでした。結婚し、子どもができ、家族で旅行に出かけるようになってから、わたしが荷造りをすると、わたしのパートナーに
「それ何日分?!。」
と、驚かれるのです。そんなに持っていけないと言われたのです。ただ、わたしの中には
用意したものは全部、持っておかないといけないと思い込んでいるので、減らすことができません…
その時にどうしようかと悩んでいると、こう言われたのです。
「足りないものは、現地で調達したらいいから。」
この一言は、わたしにとって衝撃でした。その時まで、わたしの頭の中には
- 想定される出来事に対応できるようにしておかないと不安
- 不安が強い為に硬直化した決まり事への固執した考え
この思考以外のところがなかったからこそ
現地調達という方法がある、ということすら見えていなかったのです
普段の荷物もコンパクトにしていける
旅行の荷物を減らすために行ったこと
ただそうは言っても、もちろんすぐに”現地調達で大丈夫”という思考にはなりません。ならないからこそ、練習をしていくのです。最初はわたしもとても下手で、用意した荷物の、どれが必要で、どれが不必要かの判断が出来ないでいました。わたしにとっては全部が必要という思考だったからです。
ですので最初は
パートナーの方に減らしてもらいました
自分以外の第三者に減らしてもらうということです。または、自分以外の人の荷物と見比べてみるのもいいと思います。もちろん減らされたり、思い切って自ら減らしてみたりすると、不安が残ります。でも半ば強制的にその不安を持ったまま、旅行に出かけてみるのです。
そうすると
- 荷物が軽いことでこんなに旅行が楽だと思えた
- 実は持っていかなくても本当に大丈夫だった
そういう小さな喜びを初めて経験出来たのです。実はその経験から、わたしの普段使うバッグの中も見てみたのです。そこで驚いたのは
毎日使うバッグの中には”使うかもしれない”という、不安の為のものでいっぱいでした
そしてその”使うかもしれないもの”は、下手したら1年以上使っていないものまで入っていたのです。
ただ、それがASDにとって、不安を回避する安心材料的なものであることは確かなので、無理になくすことはしなくてもいいと思っていますが
もしかしたら多過ぎるかもしれない
という目線で一度見直してみるのも、わたしは自分自身の経験から、やってみる価値はあると思っています。
旅行の荷物に関しては、今のコロナ禍で実践することは難しいと思いますが、普段使う荷物をコンパクトにする、持ち物を減らす、ということは出来ると思います。
ASDの日常はどうしても、自分の中の不安レベルで左右されてしまうところがあります。それを自覚した上で
少し思い切った行動と、自分には思い浮かばなかった思考の発見を経験していくことで”出来た”という成功体験に繋がっていくことがあります
この経験と練習の積み重ねが、ASDにとっては大切だと思っています。
最後に
定型発達の人がヒョイと軽やかな一歩を踏み出しただけで超えていけるものが、ASDにとっては、ロッククライミングで超えていかなければいけないものがあったりします。その中には
- 対面での挨拶だったり
- 雑談の輪の中にいることだったり
- 集会に参加することだったり
- 数人で一緒にランチをすることだったり
そんな簡単な事でさえ自分には出来ない・苦手とするところを、簡単に出来ていく人たちと比べては
自分を卑下する”時期”
というものがあると思っています。わたしにももちろんありましたし、今まで出会ってきたASDやASD傾向のあるかた、ADHDの方もそう、そういう経験がない人には、もしかしたらいるかもしれませんが、わたしは出会ったことがありません。
そして今、わたしはどうなのかと聞かれれば、他人と比べることに関しては、ないとは言いきれませが、自分自身を卑下することは無くなったと思います。それがどうしてかというと
もう十分というくらい、もうこれ以上ないというくらい子どもの頃からわたし自身の事を、ずっと卑下し続けてきたからだと思います
そう思うと、そういう時期があったからこそ、今になって消化されていったのかなと、思ったりもします。他人を羨み続けても、自分を卑下し続けても、どちらにしてもそこからは何も生まれないということを経験したからだと思います。そういう風に気づくための経験だったんだとしたら、それもASDのわたしには必要なことだったんだと思います。
ここで最後に、わたしの大好きだった小学校の先生が、わたしに伝えてくれた一言があるので、お伝えしたいと思います。それというのが
「大丈夫や。いつか全部、笑い話になるもんや。」
この一言は、辛い時にはいつも思い出し、そして今でも心に残っています。この言葉が、わたし以外のASDの方にも響けばと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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