ASDが”他人に興味がない”と言われるその本質とは
”他人に興味がない”と見られてしまう理由
ASDの教科書のようなものにはよく、ASDの特性として”他人に興味がない”そう書かれています。ただ、厳密に言うと半分はその通りですが、もう半分は違っていると思っています。
ASDのわたしに関してもそうですが、どんな人に対しても興味がない訳ではありません。ただ、興味がない、と言われてしまう事について思い当たる部分はあるのです。その部分というのは、ASD独特なものからのものであって、その他大勢の人が持ち合わせていない部分だと思っています。それというのは
興味がある人・ない人に対しての差が激しすぎる
というものです。例えば、その他大勢の人が、興味がある人・ない人に対して、点数で表すとすると
興味がある人;80〜90点/興味がない人;20〜30点
このように、ポイントとしては興味がない人に対しても、自分の中にそれなりに位置している、というものだと思います。
それでは、ASDにとってはどういう点数で表されるのかというと
興味がある人;150〜200点/興味がない人;0〜ー100点
このような差の違いがあると思っています。実際、わたしもそうですが
興味のある人に関しては、その人ならどういう考えをするのか、どういう人なのか、という感覚はかなり強めに持ちます。
その反面、興味のない人に関しては、自分の中にその存在というものが1mmも入ってこない、眼中にもない、全く存在してない、会話をしようとも思わない、それくらいはっきりとしてしまいます。
この差が激しすぎるからこそ、興味がない人に対する態度がそっけない以上のものだからこそ目立ってしまい、その印象が強く残り、結果的に全ての人に対して”他人に興味がない”と言われてしまう
という事だと思っています。
ASDが”他人に興味を持つ時”
ASDであっても”他人に興味を持つ時”は、もちろんあります。ただ”その時”に出会うのは本当に少ないものなのです。というのも、ASDにとって興味を持てる人というのは
自分にとって必要か必要ではないか
というところが、とてもはっきりしているからなのです。ただ、この必要か必要ではないかというのは、決して打算的なものではなく
純粋に自分の人生が楽しくなる
という人に対してのものなのです。その中には
- 感性が合う人
- 共通の興味を持っている人
- 自分にとって学びの多い人
- 誰に対してもフラットに付き合える人
こういった人たちが挙げられます。実はその中には、ASDやASD傾向のある人、またはADHDの人が多かったりもします。少数派で生きているからこそ理解し合える部分がある、という事実は実際ある気がしています。
ASDが興味を持つ人たちに出会うと、これもよくあることなのですが、案外すぐに、そういう人たちとは、昔から知っているような、古くからの友人のような感覚で、自然な付き合いを長く続けられたりもします。
”他人に興味がない”人たちの本質とは
ASDの人たちの多くは”他人に興味がない”のではなく
”他人に興味がある・無いがはっきりし過ぎている人たち”
というものだと思っています。ただ、わたしはそういうASDの人たちが好きです。その理由としては
- どんな時も自分に正直であり、裏表のない真っ直ぐな人
- 他人をコントロールしようとすることが無い
このように、ある意味とても素直でわかりやすく、表情や言葉に出にくくても実は思慮深く、優しい人が多いからです。このことからも
ASDはASDらしく生きているだけ、そのことが時に、その他大勢の中では難しく感じられることも、付き合いにくいと思われることもあると思います。ただ、その感覚というものは
少数派からの見方であるのか、大多数からの見方であるのか
というところで、感じ方や理解の仕方も変わってくるのではないかと思っています。
どんな人に対しても言えることかもしれませんが、人の弱いところというものは目につきやすく、そういった時に自ら、その人の素敵なところ、自分にはない部分を探しにいくことは、あまりしないと思います。
ただ、ASDのように少数派の人たちに対して、自分にはない部分を探していくことをすれば、とても興味深い人たちだということを発見できると思っています。だとしても、受け入れ合える世の中というのは、まだまだ遠い道のりかもしれませんが、気づけた人が少しづつでも増えていくことを、わたしは願っています。
最後に
わたしには、わたしと同じASD、そしてASD・ADHDのミックスの息子が2人います。2人の息子は、彼らなりに一生懸命、楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、辛いことも、幼いながらも日々、乗り越えているのがわかります。そんな息子たちを見てると
発達障害であっても、ただ真っ直ぐに自分の持っているものの中で生きているだけ、ということに気づかされます
そうであってももちろん、失敗もあれば、人を傷つけてしまうこともあると思います。ただ、そんなことはASDでなくても、定型発達でもありうることです。それでも、発達障害の子が、または大人が、同じようなことをしてしまった時
「あぁ、ASDだからじゃない?」
そんな冷たい一言が降りかかってくるのが、現実です。そして、そういう言葉を吐く人に限って、発達障害について何も知らない人がほとんどです。
今はまだまだ、受け入れ合える社会というものは、難しいということは感じています。ただ、ゆっくりと、そして少しづつではありますが
ASDに理解を示してくれる人、逆に理解したい、受け入れたいからASDのことを知りたい、そうやって自ら行動してくれている人たちもいます
そういった人たちの行動、思いがどんどん広がればいい、そしてせめて、息子たちが大人になった頃には、発達障害の人たちがもっと生きやすい世の中になっていてほしいと、わたしは思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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