ASDの接続過剰と接続不足とは
自閉症にある接続不足説については、そのことを紹介する論文から
自閉症では皮質の領域間の接続不足がよく見られるという説から、脳全体で見ると、中枢的な部分が各部からのメッセージを統合出来ないということになる
ということが書かれています。そしてこの接続不足とは対照的に、他の研究では、局所的な接続過剰が見つかっているそうです。いわゆる、発達過多の部分です。この発達過多については
脳の一部が他の部分の欠陥を補おうとして生じているのだろう
ということも書かれています。
このASDにおいての接続過剰と接続不足について、実際それがASDの中でどのようにして働いているのか、どういった状態の事を表現しているのかを、もう少し詳しくお伝えしてきたいと思います。
ASD当事者で動物学博士としても有名な”テンプル・グランディン”さんにある接続過剰とは
”テンプル・グランディン”さんは、ご自身にある接続過剰について、このよう述べられていました。
「私は視覚記憶をつかさどる領域で接続過剰が見られる。ありがたいことに、私は視覚を操作できる。(省略)頭の中で映像にして見て、見終わったら映像を止めることができる。ところが、自閉症の人の中には、「止める」というスイッチがきかない人もいる。そういう人にとって接続過剰は情報の一斉射撃となり、情報の多くが混乱する。」
*「自閉症の脳を読み解く」テンプル・グランディン
わたしはこの一文を読んで、わたしの中にある、ある状態とすぐに繋がりました。そのことがわたしの中にある接続過剰だったとは、今まで気づいていなかったのです。
ASDのわたしにある接続過剰について
実はわたしも常にあらゆる場面でのことが視覚化されるために、映像にして見ながら処理していきます
そしてその映像は、普段はテンプルさんと同じく、見終わったら止めることが出来ます。
ただ、わたしにはその映像を「止める」というスイッチがどうしてもきかない時があるのです。それというのが
ブログを書こうと題材をある程度決めている時、その内容が頭の中に浮かび上がると「止める」ことが出来ない
というものです。もう少し詳しくお伝えすると
場所も時間も選ばず、突然パソコンで文字をタイプしているかのように、文字が映像としてどんどんと頭の中に浮かび上がってくる
このような状態になるのです。まさしく”情報の一斉射撃”です。その時だけは、自分で止めようとしても止まりません。
そして止められないことによって、いつも困ることがあるのです。それが何かというと
わたしは短期記憶が異常なほど苦手なので、その文章が長ければ長いほど、メモを取るなどという形に残しておけない時は、すぐに記憶から無くなってしまうのです
ですので例えば
- ベッドに入り眠りにつこうとしている時に文字がダダダ…と頭の中に流れてきたら、その場ですぐに起きて、スマホのNotesやメモ機能に保存します。
- それが運転中であれば、車を停めてスマホにとりあえずの形として、ささっと音声で入力したりしています。
ただ、一番困るのがお風呂に入っている時です。スマホも触れない、形に残しておくことが出来ない時は正直、焦ります。ではその時はどうしているかというと
形に残せるまで、頭の中にある文章をずっと独り言としてぶつぶつと話し続けるのです
声に出して繰り返し唱えることで、何とか記憶を保持できるのです。それでもなるべく早くに形に残さないと完全には残せないので、いつもお風呂から出たらすぐに記録することをしています。
こういう現象が、わたしにとっての接続過剰だと考えられます。
ASDにある接続過剰の中にはマシンガントークも関係している?
これは私見的なものになりますが、わたしはASDの接続過剰については、もしかしたらASDによく見られる、自分の興味のあることをずっと話続けてしまうという”マシンガントーク”にも関係してるのではないかと思っています。わたし自身も、もちろん経験はありますが
マシンガントークをしてしまう状態の時は確かに、頭の中に浮かびあがってくる情報の量も多く、それを自力でストップさせることも難しいからです
ASDのわたしにある接続不足とは
感覚鈍麻
わたしが考える、わたし自身にある接続不足があるとしたら、それは
痛みに対してとても鈍いというものです
ASDの特性として言えば”感覚鈍麻”というものになります。このことに関しては、接続不足ではないかと思っています。
というのも、わたしにある痛みに対して鈍感というものは酷く、その事実を思い出せるのが幼稚園の頃のことです。
長距離を走って熱くなった車のマフラーに、ちょうどの高さにあったわたしの膝をあててしまい、くっきりとまるく膝が焼けこげたのです。ただ、その時のわたしは泣きもせず、いつも通りの様子で母のところまで行ってその火傷を見せたのです。もちろん母はとても驚いて、慌てて治療をしてくれました。そして何度も
「熱くなかったの?!痛くない?!。」
と聞かれましたが、わたしの答えは
「うん、大丈夫。」
でした。その他、大人になってからも
- 酷く疲れていても疲れていることがわからなくて突然体が動かなくなってしまう
- 酷い頭痛でもそれほどでもないと思っていたら髄膜炎だった
というような事例は沢山あるのです。
言葉の裏に隠されている相手の心情が読み取れない
その他の接続不足があるとしたら
相手の言葉の裏に隠されている心情が読み取れない
というものだと思います。わたしは会話をしている時、相手が発した言葉そのものにだけしか意味を見出せません。
定型発達の方は、その言葉の裏に隠されている相手の心情を、まるで推理でもするかのように読み取ることをしたりするらしいのですが、わたしにはそういったことを先ず、しようとすることすら考えられません。
常に読み取り回路は1本、相手が発した言葉そのものの意味にだけしか接続しません
わたしの接続不足は、探せばもっとあると思いますが、目立ってあるのが
- 痛みに鈍い
- 言葉の裏にある心情を読み取れない
というものだと思っています。
接続過剰があるから接続不足がある
わたしにとって、接続過剰の時も接続不足の時も大変な時はあります。ただ、そのことを
平均値に戻したいと思ったことはありません
大変な時があるというものも事実ですが、接続過剰の時はそのことに夢中になって楽しんでいる自分もいます。そうやって
楽しめることがあるから不足なところもあって、それがわたしのバランスなんだろう
そう思っているからです。
ASDのわたしはどう頑張っても定型発達になることはありません。それなら、そのままの自分をどう見ることで受け入れられるか、そしてどう楽しめるか、そのことを考えることに時間を費やすことの方が大切だと思っています。
最後に
わたしの子どもの頃の教育は特に”平均化”という色が強くありました。その平均化というものは、凹凸があるわたしのような子供にとっては、かなり苦痛でした。というのも、それがどうしてかというと
どうしたら得意を伸ばせるか
ではなく
苦手や不得意がどこにあるのか
こちらの方に強く注目されたからです。そしてその苦手や不得意に関しては、努力と根性で何とかしようとする時代でもありました。それに加え、学校というところは言語理解の世界がほどんどです。わたしのように視覚的思考で物事を考える、そして常に接続過剰と接続不足があるASDにとっては、当時を振り返ると、平均的に上手くやっていけなかったのは当然の結果です。
ただそうはいっても、現代の教育に関しても、得意な科目だけが優れていればそれでいいとはならないのが現状です。それは今の子供たちにとって、受験もそうだと思います。苦手な科目があっても、それが受験科目にあれば、どうしても合格点を取らなければ通過できません。
わたしはASDの子どもたちが、一人でも自分の思う道に進んで行けるように
早いうちから自分にある特性を自覚し、その部分に対して手段で乗り切る方法というものを探していって欲しいと思っています
不得意を得意にするのではなく、苦手を苦手のまま目を背けるのでもなく、自分の生きる道に必要なものだとすれば、最低限でいいから乗り切る手段を上手く使い、そして練習していくことだと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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