ASDが否定的発言に対して病的に敏感なのはどうしてなのか
敏感になり過ぎるその時とは
ASDには特に
興味のある・親しい人からの批判
このことに関しては病的に敏感です。例えばそれが、直接的な言葉ではなくても
- がっかりした表情
- 否定されたと読みとれるような”言い回し”
こういった何気ないことからだけでも、ASDは敏感に読み取ってしまうので、深く傷ついたりしてしまいます。
敏感過ぎるが故に、小さな出来事を大きくとらえては心が押しつぶされそうになり、その結果
- 新しいことにチャレンジしたいという前向きな意思
- 良い関係性を継続したいという思い
- 日常においてのポジティブ思考
これらが消えてしまうこともあります。
否定的発言以外にも敏感になりやすいこと
ASDは自分自身に対する否定的な発言以外にも、敏感に感じてしまうものがあります。それというのは
自分自身が何かを取り組むことに対して
築き上げていきたいと思っている人間関係に対して
失敗するのではないか
不完全に終わるのではないか
こういった自分自身に起こる”恐れの感情”です。もちろん趣味的なことに対しては、そういうことはなく、純粋に楽しめたりしまう。ここでいう新しい取り組みというのは、主に、何かにチャレンジするとか、または人間関係でもそうです。そういうチャレンジや、繋がり続けていきたい人との関係性、そのような少し覚悟がいるような、大事にしていきたいと思う事に対しては、常に何かを楽しみながら進めるということは難しく、それよりも、失敗や不完全に終わるのではないかという、少しの恐怖と共に、物事を進めるというところがあります。
ただ、厳密に言うと、人との関係性よりも、新しい取り組みの方が、恐れの感情は強い場合があります。実はこの、否定・失敗・不完全に病的なほど敏感な背景には、ASDにある特性が関係しているんです。
0・100思考が邪魔をする
全てが崩れ去るという思考
否定・失敗・不完全に病的なほど敏感な背景には、ASDの特性にある
- 完璧主義
- 0・100思考
- 不安が強い
この特性が大きく関係していると思います。だとしたら、病的に敏感になるほど”恐れる”という感情がどこから来ているのかを探れば、自ずとわかってくることがあるのです。
頑張って積み上げてきたことが、失敗や不完全な結果に終わった時に、ASDがどういう思考になるかと言うと
- 全てが崩れ去ってしまう
- やっぱり自分はダメなんだ
- 後には何も残らないし成長もない
時間と労力を費やしてきたものが全て”0になる”ここがとても怖いのです。自分には何も残らない、そう信じ切っているのです。ここで繋がるのですが、こういった積み上げてきた物事や、人との関係性の途中、その時に少しでも、親しい人からの、または関係性が良好だと感じて築いてきた人から、少しでも否定的なものを感じたりすると
- 全てが無くなってしまう前の少しでも傷が浅いうちにと、道半ばでやめてしまったり
- 築いてきた人間関係をも経ってしまったり
こういったことが起こってくるのです。ですので、否定的な発言には、病的に敏感になり過ぎてしまう、ということなんです。
否定的発言に対して病的に怖くてもいい
ASDにとって、否定的な事に敏感なところというのは
ただ、そうして受け入れられたとしても、やはり否定的発言を直接うけてしまったり、そうでなかったとしても感じてしまって、辛くなる時というのは出てきます。じゃあ辛い時はどうしたらいいのか、そう思われると思います。そういう時には
- 自分のことをよく理解してくれている方に話を聞いてもらう
- 否定だと感じた発言の中の単語に引っかかっている自分はいないか、そう思いかえして言葉全体をゆっくりと思い出し、考えてみる
- 否定と思われる発言をした相手の状況を思い返してみる
これは対処療法的ではありますが、即座に全てを0にしてしまうことは防げると思います。そしてその否定だと感じ取れた何かを、自分へのひとつの意見だと客観的に捉えられれば、聞いた後に自分の行いを止めるべきなのか、聞き流してしまえばいいものなのかが、わかってくると思います。
完全さを追求せず、ありのままの自分で
ASDが”これだ”と思い積み上げてきたものというのは
- 集中して取り組むからこそどんどんと成長し
- 後に人の役に立ったり
- ASD自身の生きる道に繋がっていったりするもの
そういうものが多いと思っています。ただ、その道の途中には、どんなことも起ります。その時に嫌だなと感じ取れる何かかがあったとしても
仮に80点くらいまで積み上げてきたものというのは、0点になることはないのです
もしその時に、やっていたことを止めてしまったとしても、80点の自分は残るのです。
完全さを求め過ぎる為に、勿体ない結果で終わってしまうことがあると思います。そういう時はもう一度、自分にしっかりと問い直し、ありのままの自分がどうしたいのかで決断することが、大切だと思っています。
最後に
ASDにしてもADHDにしても、これだけ世に広まってきているのに、まだまだ理解されていないと感じるのはどうして…?そう思っているのは、当事者やグレーゾーンの方に多いと思っています。というのは、当事者だからこそ、当事者かもしれないと思っているからこそ
情報を自ら探り、知識を得ることをしているからなのです
では逆に、自分自身が当事者ではなかったら、発達障害というものとは遠い世界で生きている人間だとしたら、よほど発達障害について興味がない限り、知ることをするということはないと思います。ただ、わたしは思います。それはわたし自身が当事者だからとかそういう意味ではなく
これからの時代、多様性を認め合うためには知識と認知は必要
そう思っています。ただそう思うきかっけとしては、わたし自身のASDの診断がきっかけだったかもしれません。だとしたら
ASDを知ってもらえることをしていくということ
そういうチャンスをわたしは与えられたのだと思っています。
今後もっとASD・ADHDだと診断される方は増えると思っています。それほどこれからの人類の進化には数パーセントだとしても、必要だということが言えるからだと思っています。必要でなかったら、自然の摂理として滅んでいくものだからです。
少しスケールの大きなことを言い過ぎたかもしれませんが、ただ素直にそう感じています。
ASDであってもADHDであっても、生まれてから死ぬまで、与えられた自分でしか生きていけないのなら、存分に自分を活かしてあげることをすればいい、それが結果、沢山の人の役に立てることに繋がると思っているからです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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