ASDはある特定の物事に限った”物忘れ”がある
注意欠陥多動性障害のADHDとASDの”物忘れ”の違い
”忘れ物”・”物忘れ”と言えばADHD?
わたしは子どものことから、”忘れ物”に関しては、そこまで目立ってある子ではありませんでした。思い返してみても、忘れ物が多くて困った…という記憶もないほどです。
そして”忘れ物”や”物忘れ”に関しては、注意欠陥多動性障害のADHDの方のイメージの方が強いと思います。例えば
- 予定していた約束を忘れる
- 持っていくはずだったものを忘れる
- 置いた場所を忘れる
このようにADHDの”忘れ物”や”物忘れ”の内容としては
・日々、移り変わっていく中で起きてくるもの
・その時々で変わっていくもの
こういう事が頻繁に起きてしまって困る、というものが多いと思います。
実際に、ADHDの方の例を挙げてみますと
- 持っていくはずのものを玄関に置いていたにも関わらず、置いたことを忘れてそのまま出かけてしまった
- スマホをどこに置いたかを忘れて探し回る
- 車で空港に行ったにも関わらず、車で行ったことを忘れて電車で帰ってきてしまった
- 予定していた打ち合わせを完全に忘れてすっぽかしてしまった
こういったことがあります。ではASDに関してはどうなのか、と言いますと、もちろんASDにも”忘れ物”や”物忘れ”はあります。ただ、ADHDとは少し質が違うのです。
ADHDとは質の違うASDにある”物忘れ”とは
わたしの息子は、わたしと同じASDであっても、忘れ物は目立ってあります。毎日のように
教科書・宿題のプリント・水筒・筆箱・帽子…
このように日によって、必ずと言っていいほど何かを忘れて帰ってきます。この部分に関しては、ADHDの方にある”忘れ物”と似ていると思います。
ただ、ASDにある”物忘れ”に関しては、独特だと感じる時があるのです。それと言うのが
ある特定の物事に限った”物忘れ”がある
ということなのです。
ある特定の物事に限った”物忘れ”というのは
・同じ内容の事を、何度忘れても、何度注意をされても、どうしても覚えられない
・忘れないでおこうと思っていても、習慣が身につかない
というものなのです。
もう少しわかりやすく、実際にわたしや息子、そして他のASDの方にある実例を挙げてみます。
数ヶ月・数年に渡り同じことを忘れ続ける
ADHDの”物忘れ”が日々移り変わるものであったとしたら、ASDの”物忘れ”というものはその反対、日々移り変わるものではなく
数ヶ月、長ければ数年に渡って、ある特定の事を忘れ続けてしまうというものがあります
ポストを確認すること
例えばわたしの場合ですと
ポストを確認することです
独り暮らしの頃から、そして結婚してからも、なぜかいつもポストの前は、何もないかのように通り過ぎてしまいます。それが、面倒くさいとかそういう理由でもないのです。
ポストを確認するという意識が全く無いといった感じなのです
さすがに結婚してからは、何度かわたしのパートナーに「ポスト確認してよ。」と言われましたが、それでも、わたしがあまりにも確認し忘れるので、諦めたのか、最近はパートナーが確認してくれては、助けてもらっています。
毎朝の顔を洗う、という行為
ASDの息子の場合では、特に目立っているのが
毎朝の顔を洗う、という行為です
朝起きたら大体の方が、歯磨きや顔を洗うことをすると思います。それはセットとして、そして一連の流れとして習慣づいていたら、特に何も考えることなく出来ることだと思います。ただ、息子の場合は、わたしと同じく、何度も声かけをし、何度も「しまったまた忘れた…。」そう息子自身が自分で確認していたとしても、また次の日には
顔を洗う、ということを忘れてしまいます…
あらゆる手段を取りながら、かれこれもう4年ほど言い続けていますが、それでも歯磨きだけをして、洗面所から出てきます。
トイレの電気を消すこと
あるASDの男性の方に話を聞いたのは
トイレの電気を消すことでした
このことだけは、結婚して20年近くになるそうですが、未だに消し忘れては奥さまに注意されているということでした。
このように、ASDの”物忘れ”に関しては
習慣に出来るような事が習慣に出来ない
ということとして起こってくるのです。ルーティンを好む一面がありながら、ルーティン化するものが難しいものもあるのです。
自分一人の力で何とかしようとしない
周囲に助けてもらう・自分なりの対策を思いつく限り試すことを諦めない
わたし自身も、そして息子も、いろんな手段で習慣化させようとするものの、何故かこの、ある特定の物事に限った”物忘れ”というものは、自分でも嫌になるほど、まるで誰かにそうされているかのように、こちら側がどう頑張っても、頑なに習慣化を拒み続けられます。
では結局、どうにもならないのか、と思われると思います。それは半分あたっていて、半分違っています。それはどういうことかと言いますと
- 一人の力ではどうにもならないけれど、周囲に助けてもらうことで何とか出来る
- あらゆる手段を試すことを諦めなかったら、自分でもできる手段を見つけられることもある
このように、一つは
自分一人の力で何とかしようとしないということ
そしてもう一つは
自分なりの対策を思いつく限り試すことを諦めない
ということなのです。ただ、どちらかと言えば、出来れば一つ目の、助けてもらえる人がいるなら、助けてもらった方がいいと思っています。というのも、ASDの特定の”物忘れ”はそれほど大変だからなのです。
周囲に理解を求める
ASDにあるある特定の物事に限った”物忘れ”に関しては、こういうところがあると周囲に理解を求めていない、または知られていないと
- だらしがない
- 注意したのに聞いていない
- やる気がない
このような誤解はあたり前に受けてしまいます。このことからも、ASD側は相手に理解を求めることは大事だと思っています。そうすることで誤解もなくなりますし、相手側もイライラしたりすることも無くなっていくと思うからです。
理解してもらえたその後は、何とか忘れないように、出来れば協力をしてもらい、その為の方法を一緒に考えてもらうのもいいと思っています。
最後に
ASDだと言われている人の中には、世界的に活躍しているアーティストや起業家がいます。そして、ASDの認知が世に広まりだしてからは、そういった才能に溢れるASDが取り上げられ、目立ってきた半面、コミュ障と言われたり、いじめのような事にあったり、差別的な目で見られるASDも同じように、目立ってきていると思います。
同じASDであって、どうして真逆のように見られてしまうのかは、答えは複雑すぎると思っています
ただ、凹凸があるのは同じということは言えると思っています。だとしたらASDが、自分自身が持っている凸の部分を発見して、活かせるかどうかが大切だと思っています。
それは簡単に見つかる人もいれば、そうでない人もいますし、見つかったとしても、大きく成し遂げないといけないものでもないと思っています。それでも、自分だけにある、好きや得意と思えるものがみつかり、自分自身がそのことを活かしていきたいと思ったなら、そこに必要だと感じるのは
”継続力”だと思っています
ASDには継続力があるとは言われています。ただ、本当に何かを成し遂げたい、それ程でなくとも、せめて自分が定めた目標を達成したいと思うなら、さらに継続し続けていくための努力も必要だと思っています。
どんなに能力があっても、飽きやすかったり、続けることが大変で諦めてしまうことを繰り返していたら、才能は才能でなくなるし、能力は能力として発揮できない結果になると思っています。この事実は、わたし自身がずっとそうやって生きてきたからこそ、わかります。
ASDにとって、自分を知るということは大切です。それと同じくらい、好きや得意な事を諦めずに継続し続けるということも、大切だと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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