ASDという診断名はわたしの一部
ASDだとしても同じ人は一人としていない
わたしにはASDという診断名が付いています。診断がついたのは、40歳になってからでしたが、もちろんASDの特性は、子どもの頃からずっと持っています。その中には
- 感覚的なもの
- 感情面に作用してくるもの
- 思考に関係してくるもの
こういった、ぱっと見れば、わたしそのものがASDで出来ているかのような特性があります。そして同じく、わたしと同じASDの方の中には、同じような特性を持っている方も、もちろんいます。
ただ、同じ特性を持ち合わせていたとしても、同じASDであったとしても
誰一人として同じ人はいないのです
生まれてからずっとわたしはわたし
「ASDだから…。」という言葉は前向きに使いたい
ASDと診断されたことによって、またはASDの特性を知ることによって、その事実を自分自身に当てはめてみることで、今までわからなかった何かに答えが出て、生き辛さが少しづつ解消されていく、ということはあります。
実際わたし自身も、ASDと診断された時は、ほっとした…という気持ちが正直ありました。というのも
わたしの中にあった”人と違う”というところに納得が出来たからなのです
子どもの頃から、例えば音が異常に怖いのも、大人に説明を求めてもわからない、そのことが自分でもわからない…というような、他にもあったいろんな不明だったことが、ASDと診断され、ASDの特性を知ったことで理解し、自分を受け入れられたからなのです。
ただ、ASDと診断されたからといって、そしてASDの特性にたくさんあてはまるといっても
生まれてからずっと、わたしはわたしなのです
他のASDにも言えるように、特性として同じようなところはあったとしても
- うれしいと思うこと
- 悲しいと思うこと
- 感動するもの
- 楽しいと感じること
- 好きな物・嫌いな物
こういったことは、それぞれで違います。生まれ育った環境、親からの教育、時代背景、生まれつきの性格…こうして出来上がってきたわたしの中の一部に、ASDの特性があてはまっているだけなのです。
実際、人の手を借りなければ、難しいこともあります。他の人が楽しめることが、楽しめないこともあります。でもその時に
「わたしはASDだから…。」
という言葉を使い、諦めて、可能性を無くしてしまいたくはないと思っています。
この言葉はいつでも、前向きに使いたいのです
逆に、わたしはASDだから
「だったらどうしていこうかな。」
そう考えることが大切だと思っています。こちらの方が好きです。それはもちろん、ASDと診断された子どもたちにもそうです。
ASDは障害です。ただ、障害という言葉にネガティブなイメージを持ちすぎている親は、ASDと診断された途端に、子どもを守り過ぎてしまう親もいます。守り過ぎるというのは、ASDの障害の部分ではないところまで、親が面倒を見過ぎてしまうということです。
確かに見た目ではわからない為に、ここからが障害で、ここはわがままだという見極めが難しい時はあります
難しいからこそ、アンテナをしっかり貼っておくことが大切だと思っています
そして、ネガティブな思考はあっても何の得にもならないと思っています。それがどうしてかと言うと、ネガティブな思考が先行していると、その子の本質を見えなくさせてしまう時があるからです。そうなってしまうと”ただ甘やかしている”となってしまいます。そして子どもも、親に甘えることが当たりまえになってしまいます。
それは大人になってからASDと診断された当事者も同じで、障害だからどうしようもない、障害があるから頑張らなくてもいい、というものではないと思っています。
人より出来ないところがあるならば、努力で何とか出来ないところであるならば
- 自分なりの手段を探してみる
- 練習してみる
そういった前向きな姿勢を持っておくことが大切だと思っています。
その人自身、その子自身を見るのが先
ASDと診断されても、わたしはわたしですし、他のASDにとってもそうです、どんな人も世界でたった一人の存在です。
ASDの情報を簡単に知ることが出来るようになった今は、それはそれでとても良いことだと思っています。ただ、その中で気をつけたいと感じているのが
- その人自身よりもASDが先に立ってしまう
- ASDのフィルターをかけて、その人自身、または当事者であれば、自分自身を決めつけてしまう
というところです。ASDの特性を知ることは大切です。ただ、そのことを知った上で、見るべき視線はその人自身、その子自身、自分自身が先なのです。
その子だけにしかない好きや嫌い・集中できるもの・こだわり・見えている世界観・思いやり・やさしさ、こういったことは、一人一人がそれぞれに持ち合わせているものです。
ASDの特性がその人、その子の全てではないということです
先ずはその人という、その子というありのままの姿を見てあげるということだと思っています。ASDと診断されたとしたら、障害の部分では助け合い、それ以外のところでは、時には厳しく、時には同じ様に楽しみ、そして自分の足でしっかりと歩みを進められるように、信じて見守ることが大切だと思っています。
最後に
わたしは子どもの頃から”自閉的なところがあった”という事実を、大人になってから、親から聞かされました。ということは、その事実を知っていながらも
何もされないでいたのです
何もされないできたということは、もちろん時代背景もありますが、自閉症ということに関して
残念な
可哀想な
そういったイメージが先行していたからこそ、その事実を認められずに、自閉的だと感じられる部分に蓋をして、どうにか標準とされるものに近づけよとしていたのだと思います。
ASD的な部分もあり、自閉的な部分もあり、わたしの性格もあり、それが全部合わさって、わたしなのです。みんなそうだと思っています。
そのことを忘れずに、ASDという診断がついたとしても、ASD傾向があるとわかっていても、あるがままを見ることをし、あるがままを受け入れてあげて欲しいと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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