ASDにとって未確定と曖昧さは苦痛
安定と不安定
ASDにとっての一日は、頭の中で事細かにしっかりとした自分だけの時間割、そして自分だけの予定が組み込まれています。それは仕事や学校、外から組み込まれた予定がない日であってもです。まるで予定に縛られて窮屈そうに聞こえると思いますが、その状態こそが
ASDにとっては安定した状態に繋がるのです
という事は、ASDにとって不安定な状態になる時というのは
はっきりと決まっていない一日
こういった”未確定な一日”は、とにかく不安定な状態になります。
休日が苦手
子どもであっても大人であっても、休日は楽しみなものだと思います。もちろんASDであっても楽しめないわけではありません。ただ、そこには”ASDが楽しめる条件”というものが発生します。その条件とは
はっきりとわかっている予定があること
休日であっても、はっきりわかている予定が無いと不安になります。
未確定な一日では楽しめないのです
ASDにとって比較的、予定が組みやすい平日よりも(もちろん人によりますが、多くの時間を過ごしている日という事で、ここでは表現します)、未確定な休日の予定が異常に気になります。
質問攻めになる
ASDは曖昧さ、そして未確定なことに対しては不安が大きくなります。とにかくその状態から抜け出したいが為に、確認することを必要以上にしてしまいます。
例えば、わたしのASDの息子の場合の休日の場合
「明日は何する?。」
「何時に出かける?。」
「ご飯は何時に食べる?。」
「おやつは何時?帰ってくるのは何時?。」
息子はいつも質問責めです。その時間も、例えば
「11時くらいには出かけよっか。」
そう伝えたとしても、息子の中では”11時ぴったり”として組み込まれてしまうので、少しでも遅れようものなら
「もう2分も過ぎてるよ!。」
こうなってしまいます。ですので毎回、息子に伝えているのは
「11時”くらい”だよ。”くらい”っていうのは、少し前になることも、少し後になることもあるってことだからね。」
このように
”くらい”という表現の中の時間をはっきりさせる
ここがASDにとっては必要なのです。たったこの一言の説明だけで、息子は11時ぴったりじゃなくても、パニックになることは減りました。
当事者同士なら自然と出来てしまう
もちろんわたし自身もASDなので、息子と同じ様に休日の予定は気になります。ですので、息子たちとわたしだけの休日は、お互いに予定が決まっていないと嫌なので、前日に話あって予定を決めたりします。
当事者同士なら、ASDが苦手とする暗黙の了解が成立する、というのはこのことなのです。
ただ、パートナーが一緒の休日、この時は、わたし自身が質問攻めになってしまいます。ところが、その返事が
「明日はお買い物にでもいこっか。」
「明日になってから決めたらいいんじゃない?。」
こう言われてしまうと、心のそわそわが止まらなくなります。というのは
一つのことが未確定という事は、その後のこともどんどん未確定になっていくからなのです
- 明日はお買い物に行くのかな…行かないのかな…
- 明日の予定はどうしたらいいのかな…
- 何時に出かけて何時に帰ってくるのかな…
- 予定が分からないから、何も決められない…
このように
ASDにとっての未確定さは苦痛であり、どうしたって前向きな一日を過ごそうという思考にはなり辛いのです
抽象的、そして曖昧な表現は理解できない
未確定と同じく
ASDにとって未確定なことが苦手という事は、もちろん”抽象的そして曖昧な表現”これも苦手です。例えばそれは
- ~かもね。
- 多分~じゃない?
- 適当でいいよ。
このような抽象的で曖昧な表現では、ASDには伝わりません。逆に理解できるまで、そして納得するまで、質問攻めにあうということも出てくると思います。というのはASDにとって
相互理解が大切
わかり合えるとノンストレス
未確定な一日にしても、抽象的で曖昧な表現にしても、ASDにとってそれがどれほど苦痛なのかということに理解と、そしてASD自身にも自覚がなければ、お互いの主張をただぶつけ合うような事にもなりかねません。ただし
ASDと関わっている方に理解があれば、そしてASDにも自覚があれば、事態は変化していきます
わたしのパートナーで言いますと、以前は未確定な予定も曖昧な表現も、普通にありました。ただ、ASDのわたしにはストレスになると話し、理解を求め、そして理解をしてくれてからは
- お互い納得のいく予定を組めるようになり
- わかっていることとわかっていないことを伝えてくれるようになり
- 予定がわからない日も、そういう日なんだとなんとか過ごせるようになり
お互いにとってのストレスはかなりなくなりました。それはASDの息子も同じように
- 予定がわからないとイライラするんだよ
- はっきりさせたい気持ちが強いところがあるんだよ
そのことを息子に知ってもらった上で、お互い出来るところは出来るようにしようね、そう話してからはゆっくりとですが、落ち着いてきました。
ASDの障害の部分というのは、確かに大変です。ただその中でも、相互理解とASD自身の自覚で、重くストレスだった部分が軽くなるということも、あるということなのです。
最後に
わたしはASDについて学ぶ中で、知らなかったことを知った時にいつも思うことがあります。それが
どうして今までこの真実を知らなかったんだろう
この思いでした。そしてその思いと同時に、知らないというだけで、今までどれだけ自分を人と比べて卑下し、自分自身によって自分を痛めつけてきたかを思い知りました。
ASDだから…
という言葉は、ネガティブなイメージでよく聞かれます。でもわたしにとっては、ネガティブなイメージでは全くもってありません。
ASDだからこそ、生きていける道を見つけられたからです
わたしが生き辛いと感じていたのは、生きていく上での選択肢があり過ぎたからだと思っています。
普通や標準と言われているものとも違う…でもそのギリギリのラインで生きている自分は、いったいどこに立ち位置を置けばいいのか…ここでもない、あっちでもない、でもなんとなくダメだったら他に行けばいい…
そうやって、それこそASDが一番苦手とする曖昧な世界で生きていたのです
曖昧で未確定な世界が無理ならば、その逆をいけばいいだけだったのです。自分というものを追求し、共感し合える仲間を見つけ、新たな一歩を踏み出すこと、ここが大切だったんじゃないかと、今は気づきました。
ASDにとって生きるということは、成功、失敗というものよりも、他人ではない、自分だけにある時間を生きるという感覚を持っていればいいだけなんじゃないかと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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