オープンクエスチョンを投げかけられたASDはどうなる?
オープン‐クエスチョン(open question)
回答の範囲を制限しない質問。「はい」「いいえ」などの選択肢がなく、回答者が自由に考えて答える質問。「休暇にはどこへ行きたいか」「なぜそう思うか」といった質問など。
このオープンクエスチョン、ASDのわたしにとっては本当に苦手なものの一つです。これまで、わたしにオープンクエスチョンで問い掛けた相手に対して望むような答えを返した、スラスラと答えられた、という記憶すらありません。
ちなみにわたしがオープンクエスチョンを投げかけられた時というのは、まず言葉に詰まり、黙り込みます。その後、しばらくして出て来た答えというものは大体において、一言で終わらせてしまうような簡単なものでしかない事が多くあります。相手にとっては、答えてくれるまでじっと待っていた、よく考えてくれているんだという印象すら持っている、でもその答えは期待したものではなかった、ということが起こるのです。
では、どうしてASDはオープンクエスチョンに対して上手く答えられないのか、思いついたことをただ話せばいいだけなのにそれが出来ないのか。そこにはASD的な思考回路があるとわたしは思っています。
質問に対して適当に答えている訳じゃない
ここでは先ず、わたしと同じASDの息子との会話を例に取って、オープンクエスチョンを投げかけられた時のASDの様子を、もう少し具体的に見ていきたいと思います。わたしが息子に対して
「今日は学校どうだった?。」
このような質問をするとします。そうすると、しばらく沈黙した後に息子は
「普通。」
と一言。
「何か楽しいことあった?。」
と投げかけても返ってくる答えは
「いつも通り。」
このように、言葉だけを捉えると息子はまるで“面倒だから適当に答えた”というように聞こえると思いますが、実はそうではないのです。どうしてこのような答え方になってしまうのかというと
ASDはとにかくピンポイントで答えを導き出そうとするからなのです
- 何に対して?
- どの瞬間の事を?
- 気持ちなのか出来事なのかどっち?
こういった事を一瞬にして考えてしまうために混乱します。曖昧で、答える範囲が広すぎて不明確な、YES/NOで答えられないような質問に対しては、その瞬間に迷路を彷徨うようにただただ困ってしまうのです。
結果、相手が求めている質問に対してのゴールがわからないまま沈黙の時間は流れ、それでも何か一言でも返さないとという焦りから、とにかく思い付いた単語で答えてしまうのです。ですのでそれは決して適当に答えたものでもなく、面倒だった訳でもなく、どう答えていいのかがわからず困っている中で、時間にも制限があると認識している中で絞り出したものなのです。
もう一つ、代表的な質問といえばこれです。
「最近どう?」
最近の何がどうなのか、いつからいつまでの期間をどう報告すればいいのか。見た目は緘黙状態であっても思考はフル回転。ただ、その時の私の答えは
「…元気です。」
この一言で終わりです。しかもその答えが正解なのか不正解なのかを、後々とても気にしたりします。ちなみに息子であれば「わかんない。」「忘れた。」なんて答えが返ってきます。子供の方がストレートに表現していると思います。こういったこといからもASDは
何も考えていない訳じゃない、適当に答えている訳でもない、むしろ考えすぎてしまっている程であって、本人はその瞬間とても困惑しているのです
「答えられる質問」と「答えられない質問」がある
わたしは自身がそうでありながら、実はASDについて学ぶ事をするまでは、息子に対して当たり前のようにオープンクエスチョンで質問を投げかけていたことが多くありました。当時を振り返ると「それは答えられないよね…。」と思い返しては反省し、そして息子の様子に対して納得しています。ASDについて知り、理解が増えてからの今、わたしが息子に質問する時には
「今日の算数の授業は何が楽しかった?。」
「お昼休みの時間はどの子と何をして過ごしたの?。」
これくらいピンポイントで質問を指摘した、分かりやすいものに変えました。こういう質問に対してだと息子は沈黙することなくスラスラと答え、逆にオープンクエスチョンの時とは違いそこからお互いに話が膨らんだりもするのです。このように
ASDにとってオープンクエスチョンに答えることは難しくても、クローズドクエスチョンにはしっかりと答えられるのです
クローズド‐クエスチョン(closed question)
回答を限定する質問。選択肢を用意して、その中から選ばせる質問。「はい」か「いいえ」を選ぶものや、「犬と猫ではどちらが好きか」といった質問など。
「知識を得る」ことの大切さ
ASDという少数派の人たちの特性を知らなければ、今回の内容にあるような困り事がASDには日常的に起こっている、ということに気づくことはないと思います。ASD自身も自分を知ることをしなければ、どうして他の人と違うのかが理解出来ない上に、どこから来ているのか分からないストレスを日常的に抱える事にも繋がります。
自分だけにある“普通”や“当たり前”がどうしても先にたち、同じように相手を無意識的に当てはめてしまうことで関係性がこじれているのであれば、まずは自分に対しても、そして相手に対してもどういう人なのかという「知識を得る」ということが大切だと思っています
わたしがASDに関してこの「知識を得る」ということが大切だと思うのは、人はそれぞれ違うものだし性格も生まれた環境も違うから、それはそれでお互いに合わせたり受け入れたりするのは当たり前だと、正直ASDの特性はそんな「個性」と呼ばれるような簡単なものではないと感じているからです。
他の人には簡単に出来てしまうことが、どんなに努力をしても出来ない、そのことを失敗だと感じさせられる経験を何度も繰り返しては自信を失っていく。実は、ASDにあった方法や環境を変えれば出来る事もあるのに、ただ知らなかったというだけで二次障害をも発症してしまう。このような残念なループから抜け出すためにも必要なことだと思っています。
これまでASDに対してオープンクエスチョンを投げかけては、もやもやするような答えしか得られなかったというのであればただ、クローズドクエスチョンに変えればいいだけなのです。ASD側も、わかりにくい質問を投げかけられたのであれば、「もう少し具体的に質問していただけると助かります。」というような内容を思い切って相手に伝えればいいのです。というのも
ASDにとって「出来ない事が何なのかを知っておく、その時には人に相談すること・助けてもらうことをする」という事はどんな場面において重要で、ストレスや起こり得る問題を回避する為にも必要な事だからです
ASDに関して知れば知るほど、簡単なスイッチを一つカチッと押すだけで改善されるような出来事があります。それはわたし自身にもあった“普通”や“当たり前”という感覚を捨てる作業と同時進行で起こっていたと思います。こういった体験を積み重ね、本来の自分のままで生きて行くことができれば、二次障害を防ぐことが出来たり、理解に苦しんでいた関係性を改善させる道をゆっくりとでも切り開いて行くことが出来るとわたしは思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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