ASD “協調性”は必要なのか

発達障害

ASDにとって“協調性”は必要なのか

ASDのわたしが対人関係で無理だったこと

“協調性”には次のような意味があります。

他の人と物事をうまくやってゆける傾向や性質
(出典:大辞林 第三版)
自分とは異なる環境や立場にいる人と、協力しながら物事を進めていくことができる素質

この意味を見ても、わたしと全く真逆の人も世の中にはいるものなんだと思いました。というのも、わたしには協調性というものは持ち合わせていない上に、努力しても協調性のある人になることは難しいからです。

それでも、社会に出てからは多くの場面でこの“協調性”というものを求められる上に、協調性のある人が評価されやすかったりします。しかも協調性のある人というのは、社交的で好かれやすかったり、明るい性格の人だったりすることで、目立ちやすく印象にも残りやすいと思います。

わたしも社会人になってからは、そういった協調性のある人、社交的な人を見ては

  • 自分もそうあるべきなのか…
  • そうする事がこの社会で生きていくという事なのか…

そう思った頃もありました。実際、会社の人同士での飲み会や打ち上げ、その他、付き合いが浅い人たちが沢山集まるような場にもなるべく断らずに出向いていた、という時期もありました。出向いただけではなく、自ら会話に入っていく、無理して人に合わせて笑う、というような事もしていました。

当時のわたしがこういった行動に出たのは、わたしが子供の頃から身につけてしまった「過剰適応」が原因だったと思います

そもそも協調性のある人のようになりたかったのか、というところでは、そうではありませんでした。ただ単に“そうするべき”、“そうあるべき”という思考のみだったと思います。そんな無理をした行動を続けた事で、もともと協調性のある人と大きく違った結果が見えたのです。その結果というのは

協調性のある人は会が終わった後でも楽しそうにしている

わたしはというと、恐ろしく疲れ切っている

というものでした。それは回数を重ねても同じ、というよりも、回数を重ねて良くなるどころか疲れ方やストレスは酷くなっていきました。

どう頑張っても、協調性を発揮しないといけないような集まりは無理だったのです

“協調性”というものに何を求めていたのか

ASDのわたしが協調性のある人を見て、羨ましいと思っていたところも正直ありました。いろんな人と上手く付き合える、どんな人とでも会話が弾む、というような部分はわたしには無かったからです。ただ、今になって分かるのは、羨ましいと思ったことの中には

自分自身を受け入れられないでいた

というところは大きかったと思います。自己肯定感が低いのも関係し、自分がどういう人間なのか、何が得意で何が好きで、何が苦手で何が嫌いなのかを見る事よりも

自分に無いものを持っている人ばかりを見ていたのです

それでも結果はいつも同じでした。協調性がある人のようになれるわけでもなく、その努力が実るわけでもないという現実があるだけでだったのです。わたしが協調性に求めていたものは、ただの無い物ねだりにすぎなかったのです。

得意なコミュニケーションと苦手なコミュニケーションがある

わたしは子供の頃からずっと、相手に合わせながら物事を円滑に進める事が出来る性格ではありません。その事実を、協調性のある人になろうとした経験とその結果から、ゆっくりと受け入れることをしていきました。ある意味開き直った、という感覚だったと思います。その頃からわたしが取った行動というのは

誘いには自分が行きたいか行きたくないか、この二択で決める

というものです。そう自分に“ルール化”したのです。少しでも行きたくないというような気持ちがあれば、即座に断りました。その事で、誘われたらどうしようという迷いからくるストレスもなくなり、誘われた先での無理をした自分を想像してはその時点から疲れてしまう、という事からも解放されました。

そしてこの頃からはっきりと理解し出したのは

わたしには得意なコミュニケーションと苦手なコミュニケーションがある

という事でした。わたしは1体1では自分に無理をすることなく、相手との会話もその時間も楽しむことが出来ます。ただ、付き合いの浅い人たちが多く集まる場では、上手くコミュニュケーションが取れません。そういう場でも上手く出来る人と出来ない人がいるだけなんだと、そう理解したのです。

それでも、雇われていればどうしても断れない誘いもありました。その時にはどうしていたかというと、とりあえず参加したとしても

無理をして必要以上に話さない、話しかけられた時にだけ答える

という状態で過ごしていました。ほぼほぼだんまりを貫き、軽くニコニコしながら、後は協調性のある人にお願いしておこうと決めていました。

それでもそうしていたのには理由があって、苦手なコミュニケーションの場で無理をすると、上手く出来ない自分を責めてしまったり、恐ろしく疲れたりしてストレスフルの状態になってしまうからなのです。

ある意味、自己防衛の為の策だったと思います

ASDにとって“協調性”は必要なのか

わたしはASDにとって、無理をした状態での協調性は必要ないのではないかと思っています。それよりも

自分にあったスタイルを見つめ直し、得意なコミュニュケーションが出来る方を選択してけばいいと思っています

ちなみにわたしはパティシエのお仕事をしていた頃、とてもスムーズに仕事が捗っていた時がありました。その時というのはわたしの他に一人、同じパティシエの後輩と組んでいた頃です。実質2人でデザート部門の仕事をしていた頃は協力し合い、意見や提案も出し合いながら、わたしが苦手な業務は助けてもらい、後輩に出来ないところはわたしが担当する、というものでした。

大人数の中にいて、協調性を必要とされる場面では仕事も対人関係も上手くいきませんが、少ない人数で、さらにピンポイントでお互いの得意不得意を補え合える関係性では、ASDであっても自分のままでいられる、仕事もなんとかやっていける、ということもあったのです。

仕事でも付き合いでも社会のルールさえ守っていれば、無理をして協調性を身につけようとするのではなく、ASDの自分らしく生きられるスタイルを作れる環境に身を置けばいいと思っています。そうしていくことで、自分にある能力にもっと気づいていけるのではないかとも思っています。

最後に

実はわたしは、2人で組んで仕事をしていた頃の後輩とは今でも繋がっています。お互いに独身だった頃から今ではもう家族ぐるみの、15年以上の付き合いになります。ですので今となっては後輩というよりも親友です。

当時から本当に明るくて人当たりも良い、とても気の付く後輩で、経験の年数だけ言えばわたしが先輩になるのかもしれませんが、わたしが助けてもらっていたことの方が多かったと思います。

一緒に働いていた職場はかなり忙しいレストランだったのですが、後輩とは毎日楽しく仕事が出来ていました。ただ、わたしにはそれまでの職場や日常的なストレスが大きすぎて結果的には体を壊し、わたしの方が先に辞めることになりました。

わたしが辞めるまでにはいろんな話も、そして引き継ぎもしていたのですが、辞める日に後輩が、いなくなるのは嫌だと、寂しすぎると泣いてお手紙までくれたことには驚きました。後輩を置いていくのは正直、心苦しかったのですがその時に

わたしでも少しは良い時間を作ってあげられたのかな…

そういう思いと出会わせてくれた感謝の気持ちで、わたしも胸がいっぱいになったのを今でも覚えています。協調性がなくマイペースなわたしでしたが、そんなわたしでも人に恵まれ、感謝できることは沢山ありました。

そういった出会いを振り返ってみると、ASDらしい自分でいる時に出会った人たちの方が長く付き合っていける人たちなのではないかと、今では思っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。

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