ASD 人の心を”感じ取る”

発達障害

ASDは人の心を”感じ取る”

人の心を”読みとる・読みとらない”とは

ASDがよく言われるのは

人の心が読み取れない

ということです。人の心が読み取れないという意味の中には

人の気持ちを想像できない

ということが含まれていると思いますが、想像の部分で読み取れないと言われるのならば、想像力が欠けていると言われているASDにとっては、そうかもしれません。ただ、厳密に言えばそれも、わたしは少し違っていると思っています。想像力の部分に関して欠けていると見られるASDは

想像する場面でのインプットの数が絶対的に少ない

ということだと思っています。というのは、想像する力が有る・無いではなく、想像する力はあるんです、ただ、その想像したものを、いろんな場面で使い分けれるだけの素材が少ない、ということだと思ってます。

そして現在では逆に”ASDは人の心を読み取れる”ということは、様々な研究から言われてきています。実際、わたしもその通りだと思っています。ただ、そうは言っても、

  • 相手の考えていることを、言葉で表現できるほどしっかりと読み取れるASDもいれば
  • 言葉でしっかりと伝えることは出来なくても、わかっている

というASDもいるのです。

”読みとる能力”よりも”感じ取る能力”

言葉以外のところで感じ取るASD

わたし自身はどちらかと言うと、子どもの頃から周りにいる大人達に対して

  • 何を考えているのか
  • 本当はどうしたいのか

というようなことは、大体わかってしまう子どもでした。その為に、そういう環境に自分を合わせ過ぎて、本心を隠してしまうところもありました。ただ、わたしと同じASDの息子を見ていると、相手が何を考えているのか、ということを言葉で表現できないにしても

  • 今、どういう気持ちでいるのか
  • 疲れているのかそうでないのか
  • 本当は悲しいのか、嬉しいのか
  • 話しかけない方がいいのか、話しかけても大丈夫なのか

こういったことに関しては、たとえ相手の表情が感情と反対であったとしても、または、行動や発言に出ていなかったとしても

ASDはその人の心を、言葉や行動以外のところでしっかりと”感じ取る”のです

当時のわたし自身のことを思い返してみても、そして息子たちを見ていても、それは相手の心を”読みとる”というよりも”感じ取る”という方が近いのではないかと思っています。

猫のようなASD

わたしは猫を飼っているのですが、その猫と一緒にいると、まさにASDそのものだなと思う時があります。

  • 超がつく程マイペースで
  • 家族といても、一人でいられるスペースを好み
  • かと思えば、家族が出ていくとなんとなく寂しくなり、帰りを待っていたり

そんな姿にとても共感してしまうのですが、その中でも特にASDのようだと感じた事がありました。それは

息子が泣いている時

何かで落ち込んでいる時

疲れていて元気がない時

こういう時には、それまで寝ていたり、マイペースに過ごしていたとしても

息子の側に近寄ってきては、様子を伺うように、そして心配でもしているかのように、寄り添ってくれるのです

猫はもちろん人間と話すことも無ければ、言葉をちゃんと理解しているわけでも無いと思います。それでもASDのように”心を感じ取る”ということをしているのだと思います。

ASDの子どもたちは自分の本能に従うやさしさがある

ASDの子どもたちを見ていると

とても素直でやさしい

ということろはいつも感じます。もちろん癇癪やこだわりも強くあれば、それはそれで大変な時もありますが、根本にあるものはみんな同じだと思っています。

ASDの子は、相手が何を思っているかを、言葉で表現できなくても、見た目ではないところで感じ取り、そして弱っている人の側に行っては

  • 無言のままそっと撫でてくれたり
  • 何となく隣に座ってくれたり

そうやって、やさしさで寄り添ってくれたりします。もちろんASDじゃなくても、子どもはやさしさで溢れていると思います。ただ

何となく感じ取り、そしてなんとなく寄り添ってくれる、というものはASDがもともと持っている本能的なものだと感じます

大人になるにつれて人の心を”感じ取る”ことに困難さを感じた時は

ただASDは、大人になるにつれて、そのやさしさを利用されたり、騙されたり、逆にいろんなことを感じ取り過ぎてしまう自分に疲れてしまったりして、いつの間にか心のどこかに”感じ取る”という能力を隠してしまうASDの大人もいると思っています。

でも、もしそうなってしまった自分がいたなら

子どもの頃の事を思い出してみて欲しいと思います

じっくりと時間をかければ、本来の自分はどうだったのか、どうして自分でないところで生きているのか、そして、人の心を”感じ取る”ということは、決して無くしてしまわない方が良いということも、わかってくると思います。

最後に

ASDの自分で生きていくという中で、わたしが必要だと感じることは

打たれ強くなることです

ASDは世の中に一歩出れば、それこそ”打たれる”ことは沢山あると思っています。その上、繊細で感覚的に感じ取りやすいところがあるからこそ、他の人の何倍も傷ついたり、辛くなることはあります。

ただ、ASDなところがあるからそうなんだと、良い意味での開き直った自分を持つことをするといいと思っています。そうすることで、落ち込むだけ落ち込んだとしても

まあ自分はこうなってしまうんだよな

そうやって俯瞰して見ることができ、自分を責めすぎることも、後ろ向きに考えすぎてしまうことも、減ってくるからです。そしてその繰り返しを経験していくことが、自分の強さになっていくんだと、そう感じられることが大切だと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。

コメント

  1. マグカップ より:

    ロココさん!

    Youtubeのほうからブログへと飛んで来ました。さっそくコメントお邪魔します。昨日は動画に書いたコメントへの返信までありがとうございました!読んでて嬉しくて主人に自慢しちゃいました!

    昨日からいくつか記事を読ませて頂いててYoutubeのときと同様に涙が溢れるたくさんの言葉に、とても気持ちが救われました!また元気に1日がスタート出来ました!

    ロココさんのブログや動画に出会えたことに感謝してます!ロココさん応援しています!では失礼いたします!

    追記で…
    Youtubeへコメントする機能を今まで使ったことが無く本名でコメントしちゃってたので名前を変更してみようと思っていますが、ロココさんにまたコメントを書き込むときなど、よろしくお願いいたします!

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