ASD 子どもの頃から”真正直でありのまま”

発達障害

ASDは子どもの頃から、そして大人になっても”真正直でありのまま”

表現がストレートすぎる?

昔のわたしの発言は時に、相手を困惑させてしまうことがありました。それというのは

ストレート過ぎる表現で伝えてしまい、相手の痛いところを突いてしまう

”かけひき”や”オブラートに包む”というような表現が出来ないわたしにとって、図星だと相手に言わせてしまうようなことを、普通に言ってしまうのです。

その上、わたし自身がASDだと自覚するまでは、ASDの特性のひとつにある

文字通りの解釈

というものが、定型発達の人たちにも当たり前にあるものだと思っていたので、逆に、ストレートに表現した方が良いとまで思っていたのです。

ただ、悩んでいることを相談された時には、ストレートに伝えたことで、悩んでいた事の答えがみつかって気持ちがスッキリしたと言われたこともありましたが、もちろんその反対の、自分では自覚していたけど、改めて真っ直ぐに痛いところを突かれて、落ち込んでしまったという人もいたのです。

悩んでいる相手が何を言って欲しいかがわかってしまう

雰囲気と空気で読みとる

ASDの中にある”よかれと思って”の発言は、一般的(一般的と表現するのは、ここでは大多数、という意味で表現します)なものとは逆のところにあります。というのは大体の方は、例えば相談をされた時には、相手のことを思い、相手のことを考えるからこそ

  • 悩んでいることの本質はなんとなくわかったけど、ここでは話を聞くだけにしておこう
  • 悩んでいるようだけど、何を悩んでいるかが伝わらない…でも今、そこを聞いてしまっては余計に混乱するかもしれないから、とりあえず落ち着くまでそっとしておこう

こういう

”あえて、言わないでおこう…あえて、そっとしておこう…”

ということをします。

では、ASDはどうなのか。ASDは、もちろん全てのASDがそうだとは言い切れませんが、悩んでいる相手を目の前にしたら

その人のその時の雰囲気や空気感で、悩みの本質は読み取れてしまう

読みとれた時点で、とにかく相手にとって、今その悩みの本質と向き合わなければ解決に繋がらないという、正義感のようなものが生まれる

自分に嘘をつけない真正直なASDは、相手と同じ熱量で、とにかく真実を伝えることをする

このように”あえて何も言わない”ということをすることはほとんどありません。それよりも

なんとかこの場で、悩んでいる相手が一歩でも前に進めるように、自分自身も必死になる

という状態になってしまうのです。

子どもの頃から親の相談相手

思い返せば、わたしは子どもの頃からよく親の相談相手になっていました。逆に同級生からは、相談されることは、わたしの親友を除けば、ほとんど無かったように思います。というのはおそらく

  • 悩んでいる大人たちは、周りの大人に相談しても、なんとなく解決に至らない

→相談したその人のことを思うからこそ、ストレートに発言することを、あえて控えるから

  • ASDのわたしに相談することをすると

→何も包み隠さず、聞くだけということもせず、本質を伝えてくるからスッキリする

ただ、わたしが子どもだったという事実もあって、ストレートに本質を突いたとしても、相手が親だったり、大人だったりすると受け止められるものの、同年代の子どもたちからすれば、きつく感じたのかもしれません。

子どもの頃のわたしの表現の仕方は、大人になっても変わっていません。ただ、子ども対大人だったからこそ、受け止めてくれていたものが、大人対大人になった時というのは

相手の性格やその時の状況を見極める

ということが必要になるんだと、それこそ大人になってからやっと少し理解することが出来たのです。

それでも真正直さが先に立つ?

会話というものは、そして特に相談された時というのは”その人の性格や状況を見る”ということが頭ではわかっていたとしても、定型発達の方が自然に出来るような

相手の状況や気持ちを汲んで、自分の思うところではない発言をしたりする

このことはやはり、なかなか難しいものがありました。というのも、どうしても、自分の真正直さが先に立ってしまうからなのです。

ASDの”真正直とありのまま”はそのままに

ASDのわたしに出来る方法があるとすれば

ASDにある、子どもの頃から”真正直でありのまま”というところは、わたしが自分自身のことだけを見て言うと、大変な事のように感じていましたが、他のASDの方ににある”真正直さとありのまま”だと感じられる一面が見えた時

真っ直ぐで、裏表がなくて、相手に対して一生懸命な気持ちのいい人だな…

そう感じたのです。ということは、逆に無くしてしまったり、押さえつけてしまってはいけないものなのだということも理解したのです。

このことから、わたし自身が相手に対して思うことを伝える時は

”真正直でありのまま”のわたしのままで

付き合いが浅いか深いか
本当にそこまで求められているかどうか
ストレートに伝えたくなっても、気持ち半分くらいで終わらす

こういう事を意識しながら、伝えていい相手には思いきり伝えることをしますし、そうでない相手かもしれないと思った時には

思ってもないことを言おうと頑張るのではなく、発言を減らす

という”発言の量でコントロールを取る”という方法で対処していくことをするようになりました。もちろん、上手くいく時、いかない時はありますが笑。

ASDに元々ある、子どもの頃から”真正直でありのまま”という一面は、相手によっては、その良さが伝わりにくかったり、知らず知らずのうちに嫌な思いを感じさせてしまったりもします。そうならない為にも、そして、その部分を無くしてしまわない為にも

ASD自身が自分を知り、自分を守るために自覚して出来る範囲でコントロールをする

こういったことは、わたしの経験からも持っておいた方がいいように感じます。ただ逆に、ASDの方にストレートに発言して欲しいと思われた方は、そのように伝えると、一瞬で悩みが解決するというようなこともあります。その時はASDの方と真っ直ぐに付き合ってみるのも、わたしは良い時間になるのではないかと、思っています。

最後に

ASDは定型発達の方から見たら

  • いろいろと不器用で大変そう…
  • なんだか付き合いにくい…

そう感じることもあると思います。ただ、そう感じてしまうASDの方がいるとしたら、それはきっと

  • ASD自身がいるべき場所の選択を間違っている
  • 隠された才能や能力を引き出されないままでいる

そう思います。そう思うのがどうしてなのかと言うと

結局はASDの特性がある自分として生きていくしかない

ということが事実だからなのです。ASDという発達障害を持って生きてきて、わたしが思うことというのは、定型発達の人たちの中にいれば不器用だし、コミュニケーションも下手だと見られるでしょう。でもそれがASDであり、わたしなのです。だとしたら

人に迷惑をかけないように、生きていく術を身につけていきながら、ありのままの自分ので生きる

こういう不器用な生き方を全うするしかないと思っています。全うすればいいと思っています。

今を生きる大人のASDの方、未来を生きていくASDの子どもたち、現実は厳しいことがまだまだあると思いますが、どうかそのままで、とわたしはいつも思っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。

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