ASD 「自分が何者かわからない」

感覚過敏

どう考えても向いていない職業を選択し続けてしまう

わたしがASDだという診断を受けたのは、40歳になった時だったので、発達障害だということを意識し出したのも40歳がスタートでした。その頃までは、親からも定型発達の子たちと同じような感覚で育てられ、わたし自身も「他の子達のようにいろいろと上手くできないなぁ」という意識がぽつぽつとありながらも、なんとかやり過ごすことでそのことに目を向けることもなく、ボヤッとした自分のまま周りに合わせるようにして過ごしていたように思います。特に得意だと思えることもないけれど、苦手なこともそんなにないかな、くらいにしか考えていない状態。そんな

自分の得意・不得意が曖昧なまま大人になってしまったのです

聴覚過敏がひどくあったにも関わらず、他の子にはないそのことが自体が恥ずかしいとまで思っていたので、我慢をして隠すようにして過ごしていたし、他にもあった感覚過敏にしても同じ。自分だけが大丈夫じゃないと思うことは、なるべく外に出さないように、本当の自分を隠し、他の誰かを装うようにして生きていました。そんな自分だったからこそ失敗し続けたことがあります。それが、「職選び」でした。

わたしは親の勧めるまま製菓の専門学校を卒業し、そのまま5店舗ほど展開していた大きなパティスリーに就職しました。今思えば、どう考えても自分に向いていない仕事を、あっさりと選んでしまっていたのです。パティシエという仕事が、黙々とただお菓子作りと向き合って誰と話すこともない、手作業に打ち込める時間だけが存在する、という環境だったら違ったかもしれません。ただ、もちろん会社となればそうはいきません。“そうはいかない”ということが、得意・不得意が曖昧なままのわたしにはわからなかったのです。

お菓子が作れても、そこには同時進行でいろんな人とのコミュニケーションが求められる。日によって作業内容が変わりその都度、臨機応変な対応を求められる。そういった状況に毎日のように全神経を集中させていても難しい、それでもその難しいと感じている自分にまだ、目を向けることはありませんでした。「こんなにもしんどいのは、今の職場が合わないだけ。技術はある程度身についたから、違う職場に移ればなんとなるはず…」そうやってまた、自分には完全に向いていない職業をわたしは選択し続けていったのです。

自分を客観視することが苦手

わたしが子供の頃、親や周りの大人たちからは「本人の努力で本人を変える」ということを教えられてきました。それはそうだと思います。親からすれば、わたしはずっと定型発達だったからです。誰からも「本人の努力ではなく、環境を整えましょう」とは教えられませんでした。だからこそ、周りの人たちを見て真似をすることをしながら、出来なければ自分の努力が足らないからなんだとか「やる気の問題」だと思っていました。「ちゃんとしなさい」の「ちゃんと」ってなんだ…?と思っていても、その「ちゃんと」がわかっている人だらけだったので、なんとなく聞いてはいけない雰囲気を察しては、「ちゃんとやってる人」を探す旅に出るだけでした。こういったことが積み重なっては、更に自分と向き合うことから離れていきます。離れれば離れるほど、自分の得意・不得意は迷宮入りしていきます。実はこのことをどんどん酷くしていったのは、周りの影響もあったと思いますが、そもそもASDのわたしには

自分を客観視することが苦手

という特性があったからなのです。自分のことがわからなければ、自分に合う職業も、そして環境もわからないのは当然です。しかもASDには“こだわりが強い”というところもあって、それが悪い方に働くと、自分に合わない職業でも「続ける」ということだけにこだわってしまうことで、間違った努力の積み重ねが起こります。または、明確な「努力の合格ライン」のような一律の物差しがないからこそ、どこまで頑張ればいいのかがわからなくて、止めるに止められない、という状況に陥っては結果的に大打撃を食らってしまうのです。まさに当時、ASDだと診断を受ける前のわたしは、この負のループにどっぷりとハマっていました。

仕事をするというこはこういうことなんだ、これくらい大変でキツいものなんだと、すでに二次障害になっていたにも関わらず気付けないまま40歳になった時。診断を受け、発達障害の勉強をしていく中で初めて、わたしにとっては衝撃の事実を知ったのです。それというのは、実は定型発達の人、いわゆる健常者といわれる人は、自分の仕事の向き不向きをある程度、なんとなくつかめていて、そのことに加え、もし自分にあっていない仕事に就いたとしても、それなりに対処することができる、というものでした。

ただ、もちろん定型発達者でもストレスがない人なんていません。余裕で日々過ごしているなんてことも思っていません。わたしも定型発達の人たちの中でずっと仕事をしてきたので、それぞれに悩みがあったり、努力していたり、我慢していることもあるのは理解しています。そのことを理解した上で、わたしが衝撃を受けたのは、同じような辛い状況があったとしても、それを感じ取る度合いや質がとんでもなく違った、という部分なのです。このように言葉にするだけではまだまだ、自分だけがしんどいと言っているなんてことも思われるかもしれませんが、そうではないのです。実際に少数派と多数派の人とでは、発達の仕方も、同じ物を見ても感じ取ったり理解する部分も違います。だからこそ、同じような状況でも、少しのストレスで受け流せる人と、受け流せないほど強いストレスを抱えてしまう人、という人が同じ社会の中で存在している、ということなのです。

わたしが当たり前に思っていた、地球上の全ての人が、自分に不向きなこと=絶対に死んでもやりたくないこと、ではなかった、ということなのです。

自分のことが全く見えていなかった診断前のわたしは、しんどい状況を他のみんなも過ごしているけれど、それでもなんとかやり過ごしながら休日に上手くストレスを発散して、またいつも通りに仕事に向かっているのをずっと見てきて、そうあろうと必死でした。でも、それがわたしにはどう頑張っても出来ない。もしかしたら他の人はここまでのストレスじゃないのかも…?と、うすうす感じてはいたかもしれません。自分に合っていない仕事に就いている毎日は地獄以外の何者でもなかったにも関わらず、それでも、当時のわたしが目を向けていたのは自分自身ではなく、上手くやっている人たちの方でした。

「自分が何者かわからない」から抜け出すために

わたしは長い間、ずっと自分が何者かわかりませんでした。他の人たちとちょっと違うんだろう、周りの人たちのように上手く出来ないんだろう、という感覚をずっと持ちながらも、自分に目を向けることもなく得意・不得意さえもわからない、というよりもそもそも得意・不得意なんてことを考えたことすらありませんでした。何かを選択する時には「好きか嫌いか」というだけの感情で決断し「これならできるかも?!」と飛びついたことでも、やってみてそれほど好きじゃなかったという結果になれば、それなりに対処することもできず、ストレスだけが溜まりやめてしまう。失敗の繰り返しでふらふらと生きていました。

ただ、今は違います。違うといっても夢や希望ができた!というようなキラキラしたものではなく、同じ失敗を繰り返さないためにはどうすればいいのか、ということは大体わかったというものです。わたしにとってASDの診断は自分と向き合うための一つのきっかけのようなものでした。ですので厳密にいうと、どんなきっかけであっても、それが診断の有無以外のものであっても、自分と向き合うということが大切だと思っています。ただ、そのきっかけをもらっただけでは、まだまだスタートラインだと思っています。

「自分が何者かわからない」という状態から抜け出すためには、「自分は何が得意で、何が苦手なのか」という解像度を上げること、そして自分の特性に本人が納得すること、自分の影形を知り、腹落ちするということが重要なのです。

わたしはASDだという診断がなければ、というよりも自覚と受け入れ態勢がなければ、今頃どうしていただろうと思うことがあります。どう思っても、自分らしく生き生きと過ごしている姿は思い浮かびません。診断の有無は人それぞれ捉え方はいろいろですが、わたしにとっては生きる上で助けとなったのは事実です。というのも、自分自身のことがわかってからはまるで数学を説くように、いろんな物事に対しての答えが一つづつ明確に出ては、クリアしていっているような感覚があって、1人で答えの出ない重い荷物を抱える人生から解放されたように感じたからです。例えばASDにとって生きやすい社会とはどういうものだろうという疑問にも、コミュニケーションが明確で、マニュアルが整っている、そして人間の認識には必ずズレがあるという前提で動いている社会の方が生きやすいだろうな、ということがわかったり。能力があっても、発揮できるかどうかは「環境」がキモだということも。

本人が自分自身を理解することで、見える世界は変わると思っています。諦めないといけないことも出てくるかもしれないけれど、諦めずに取り組める何かを探し続けることはできます。余裕では生きられないかもしれないけれど、余裕で生きている人なんてそもそもいない。そう理解した上で、では自分には何ができるのかを考えることはできます。不器用であっても、そんな生き方もありなんだと自分を許すことで、ちょっと前に進むこともできます。そうやって一歩づつでいいので、今も何らかの生きづらさを抱えている人が、理解という出発点に立てることを願っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

 

*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。

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