ASD 「ノー」が言えない・相手を責める反応が少ない人たち

発達障害

問題を繰り返してしまう当事者に隠されているもの

ASDといえばよく聞かされるのが、“相手を責める攻撃的な言動が多いタイプの人”。こっちは優しく伝えているつもりなのに突然、感情的になり自分を正当化しては激しく反論をしてくる人たちだとイメージされている方は、少なくないのではと思います。だとしてもこのイメージは間違っていると言いたいわけではなく、ASDの人の中には攻撃的な言動が多いタイプの人がいるのは事実です。ただ、ここであまり知られていないもう一つの事実を付け加えるとすれば

ASDの中でもっとも多いのは“相手を責める反応が少ないタイプの人たち”ということです。

そもそも純粋なASDの人たちというのは、穏やかでマイペース、そして基本的には群れないし集団を作らない、だからといって社会性が全くないわけでもない。人に媚びることもしない、裏表もない、そんなある意味分かりやすい、正直で優しいとても真面目な人たちです。だからこそ、例えば嫌味を言われていることに気づかなかったり、利用されていることに気づかず、一方的に仕事を押し付けられたりしたとしても、無理をしてまで請け負ってしまったりします。実際いじめやハラスメントに遭いやすくなっては、そのストレスから鬱病などの精神的な病気にかかってしまうことも少なくありません。元々は攻撃的ではないのに自己防衛のためやストレスから、少しのことにも反応しやすくなり、激情型へと無意識的に変わっていってしまうことも起こります。こういった状況が繰り返されてしまうのは

純粋にASDの特性からではなく、その奥に隠されている二次障害から問題が発症している、という状況が様々な場面で起こり得るからだと感じています。

ただ、二次障害から問題が発生しているということを自覚できると、自分自身にも、そして相手にも理解を求められるように行動し、時間がかかったとしても、根本的なところから取り組もうとします。では、そこに辿り着けずに問題を繰り返してしまう当事者とはどういった人たちなのか、ということについて書いてみたいと思います。

子供の頃から自分はなんとなく他者とは違う、という違和感を自覚している人の多くは、頑張っても他の子のように上手くできないことや、感覚的なものに悩まされ、それでも誰にもそのことを相談できない。相談したとしても上手く伝えられないからこそ理解されない、という経験を積み重ねていきます。そして、自分自身でもよくわからない問題を抱えたまま大人になった時、多数派を基準に作られた社会で生きていくのは無理がありすぎる、という現実に直面するのです。

苦しすぎるギリギリの状態にまで陥った時、こんな辛い状況をなんとかしたいと思い、縋るように病院を受診しその時にやっと、特性と二次障害を認められた人たちが、ASDという診断に辿り着きます。

仮に診断がついていないとしても、自分にはASDの特性があるという自覚を持つと、自分のことも相手のことも受け入れ体制に入りやすくなるため、話し合いができる場面は増えていきます。ただそうではない、ASD的な特性を持ち合わせていると周囲が気づくほどであっても自覚がない、というよりもそもそも本人が発達障害に関して知識がない場合だとすると、そのこと自体に差別的な意識まで持ってしまっているからこそ認めたくない、という人たちもいます。実はそういった人たちの中に、診断のつかない当事者が存在していたりします。そして中には既に、二次障害を抱えているからこそ何度も同じような問題を起こしてしまう、という可能性は否定できないと思っています。ただ、そういった人たちの問題が浮き彫りになってしまうのは、本人だけの問題ではなく

環境が合っていないことが原因で、障害だとみられるほどの問題が起こる

ということも事実です。それは会社や学校など、外の世界だけで起こることではなく、家庭内でも起こり得ます。実際、少数派の人たちが多くいて、多数派だと言われている人たちがその中に数人だけいるとすれば、立場は逆転するわけです。少数派に適した環境であれば、少数派の問題が問題でなくなることや、障害ではなくなることもあるのです。

ただ、今の社会ではそのことが難しく、ASDだということを自覚しながら特性と上手く向き合い、生きていく術を身につけていくしかない現状が多いことも事実です。それでも、無自覚でいるより診断がついたり自覚できたりすると、自分自身と繋がろうとすることで、本来はそうでないのに攻撃的になっているのはどうしてなのかと、自分と向き合えることもあります。そういった状況にいない、自覚のない人たちは自分と向き合えるチャンスがないからこそ、問題を繰り返してしまうのだと考えられます。実際、わたし自身も診断がつく前までは、困り事がありながらも自分自身を疑うなんてことは、全くできていませんでした。自分を客観視するという考えすらなく、相手を理解しようと努めることもない、ただただ現状を受け入れることで精一杯でした。

どちらにしてもASDの特性があれば、今の世の中では辛い現実に直面することが多くあることに変わりありません。だからこそ、二次的な問題を抱えた当事者が攻撃的にならざるを得ない状況が目立ってあったり、多数派の常識に合わせられない、空気が読めないなどと言われてしまうことが多いからこそ、それがASDだとイメージされてしまうことはあると思います。ただ、本来のASDはそうではなく、全く真逆の“相手を責める反応が少ない人たち”、“自分を責めてしまうタイプの人たち”が多く、淡々と一人マイペースに、自分にしか関心がないように見えて実は、繊細で優しい心を持ち合わせている人たちがほとんどなのです。そういったことが分かりづらいのは、“表現の仕方が多数派の人たちとは違っている”というところはあると思っています。

「ノー」が言えない、相手を責める反応が少ない人たちとは

わたし自身もどちらかというと、相手を責める反応が少ないタイプだったと思います。とにかく一言で言うと、“本心”が言えないのです。例えば会社で上司に理不尽なことを言われてもただ、黙り込む。反抗したり強い口調で相手を言い負かすなんてことも、もちろんありません。自分の意見を言うことすらせずにただただ相手の言うことを聞き、一言「ノー」という意思表示さえもできないまま、我慢することでしか対応できていませんでした。ただ、思い返せば、我慢するしかないという結果を繰り返してしまっていたのは

咄嗟に相手に反応できない

というところがあったからなのです。何をどう答えていいのかわからないまま時間が過ぎていっては、この場をどう凌げばいいか、なんてことしか考えません。話し合いをする、というよりもいつの間にか相手の話を一方的に聞くことで終わってしまいます。その内容に対して反論したい、そんなことは嫌だと思いつつも反応できない。結果的にはいつも、こんな状況になったのは自分が悪かったんだろうと自責するだけで何も言えず、行動にも感情にもブレーキをかけてしまうのです。ただ、それでは何も解決できないどころか、いつの間にか強いストレスを抱えていました。こういったことが何故、起こってしまっていたのか。実はASDの人の中には本来

相手を責める反応(他責反応)が通常よりも低い

という事実があったのです。わたしが咄嗟に相手に反応できなかったのも、この“他責反応が弱い”というところがあったからではないかと思っています。このことは全てのASDに言えるとは限りませんが、PFスタディという、ストレスを受けたとき、どういうコミュニケーションを取るかを調べる検査をした結果、通常は35%程度認められるものが、ASDの方の中には5%しか認められなかった、という事実もあります。

こういった事実をも自覚できていない、となると自責反応が通常となってしまっては不当なことにもノーが言えず、諦めるしかないという境地に追い込まれてしまうこともあります。それに加え、ASDには“自分の考えや感情を上手く言語化できない”、というハードルまであります。このことは練習すればある程度できるようになることもありますが、そもそもこういった事実を理解していない、知らないとなれば練習しようという意識すら起こりません。自分を守るための当然の主張すらできない、それでは自分を適切に守るスキルすら身につかないどころか、鬱状態などの二次的な問題を長引かせることにもなってしまうのです。

適切な「ノーサイン」を出し、自分の答えを明確にしていく

いつも咄嗟に本心を言えず、当然の如く断るべき内容や、理不尽だと感じさせられることにも反応できない、自分を責めてしまうばかりのわたしが、初めてしっかりとノーが言えたと自覚できたのは、40歳を過ぎた頃でした。ただ、当時は自分自身のことを今ほど理解していた訳ではなく、心のどこかで自分の意思を伝えることは必要だと分かっていたこと、そして意思表示ができる人たちを見ては、そうなりたいとずっと思っていたからこそ思い切って実践してみた、という感じではありました。こういったことは定型発達の人であれば、もっと早い段階でできていたのかもしれませんが、ASDにはそう簡単にはいかないことが多くあるのです。

適切な「ノーサイン」が出せた時、わたしは大切なことを学びました。それは

自分にとって我慢やストレスが大きいと感じられる場面でこそ、適切に「ノーサイン」を出すということで、自分の生き方や大切にしているものを守るということに繋がる

そう感じたのです。ただ、その時にノーというだけでは、相手も納得出来ないことがあると思います。そこで必要なのが

事情を説明するスキルを身につける

というものです。ただ、ノーを言うだけでも難しいのに、その上、事情を説明するなんてことはかなりハードルが高い、と思われる方もいると思います。実際のところ、わたしもすぐにはできませんでした。そこで、下手ながらもわたしが取った方法というのは“文章で伝える”という方法です。それは実際手紙に書くという時もあれは、メールの時もあります。ただ、もちろんその内容は、「自分のことを理解しろ。」という一方的なものではありません。相手の事情も汲み取りながら、その上で自分が感じたことや、今後どうしたいのかを淡々と伝える、というものです。

もちろん、もう一度話し合う、という方法が取れるのであればそれがベストだと思いますが、まだまだ難しいという場合の策として、文章で伝えるという方法があるということです。どちらにしても、落ちついて事情を伝えられれば、自分がどうしたいのか、ということを明らかにしていきながら、相手の心情をも感じ取ることができたりします。

事情を伝えることは、自分の身を守ることにも繋がりますが、相手に対する思いやりでもあると思っています。理由がわからないことほど、相手にとっては苦痛が大きくなるからです。

こういった少しの手間を取ることで、自分の答えを明確にできる上に、相手とのコミュニケーションや相互理解もスムーズになることはあると思います。ただ、話し合いに応じてくれる人もいれば、そうでない人もいます。自分の思い通りにならないことは全て相手に責任転嫁したり、そもそも理解しようという態勢すらない。そういった難しい相手には、過剰に反応するのではなく“相手に敬意を払いつつ距離をとる”ということも必要だと思っています。自分ができることを精一杯やっても無理な場合は、一定の距離を取ることが、相手の攻撃を防ぎ、自分の身を守ることにも繋がるからです。

様々な状況があり、お互い様だと感じられる場面もあると思います。ただ、そうではない、ASDである自分はいつも必要な「ノー」も言えないでいる、そして自分ばかり責めてしまう、という状況があまりにも多いと感じているのであれば、本当に自分だけの責任なのか、「ノーサイン」を出すことから逃げていないか、というところを振り返ってみて欲しいと思っています。追い詰められ、逃げ場のない状況に自ら歩んでいかないように、時間がかかっても、自分にやれることをやり尽くしてみてほしいと思っています。そのことで、これまでのことは何も無駄ではなかったと、そう感じられる瞬間が必ずやってくると思っているからです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。

*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。

 

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