ASDなのに?コミュニケーション能力が高いと言われるのはどうして
わたしは身近にいる親しい人たちや友人から、最近よく言われることがあります。それは
「コミュニケーション能力高いよね。」
というものです。更には、他の人たちよりもコミュニケーションが上手だとまで、言われることもあるほどです。確かに、わたしは数人で集まる場において、全く話に入ることなくスマホばかり見ているとか、興味のある内容だけにしか会話に参加しないとか、ある意味“空気が読めない”と言われるような態度はとっていないと思います。どちらかというと、その場にいる人たちに積極的に話を振ったり、相手の話にわかりやすく相槌を打ちながら、そして視線にも気を配りながら聞いていたり、または(この話は面白いかな…?)と思えるようなものまで、自ら話したりもします。
このようなわたしの態度からは、ぱっと見でASDだと疑う人はいないのではないかと思います。実際ここ数年では、そのように疑問を持たれたこともありません。ただ、コミュニケーションを取る場では普通の人とほとんど変わらないと見えても、長年連れ添っていて、わたしをASDだと理解してくれているパートナーからは、その裏に隠されているわたしの本質を知ってくれているからこそ、数人で集まるような約束ができた時には、必ず言われる一言があります。それは
「無理して行かなくてもいいからね。」
というものです。一緒にいて楽しい人たちの集まりだとわかっていても、パートナーからこの一言がどうして出てくるのかは、コミュニケーションの場にいる時だけのわたしではなく、その前後のわたしの状態を知っているからなのです。
例えば、仲良くさせていただいている、友人とまではいかないにしても関係性の良い親しい人たちと、久しぶりに食事に行く約束があった時。集まる人数も5〜8人というような賑やかな会になりそうな、そんな一見楽しげな集まりの日は多数派の人たちにとって、当日までの時間も、お店に向かうその道中も楽しみでしかないと思います。テンションも高めで嬉しそうな感じが見て取れる、という状態である人がほとんどではないかと思います。実は、そのような感覚を、わたしはこれまでに一度も経験したことがありません。
ASDは安定を好むからこそ、どんなに楽しそうな内容であっても、約束ができた非日常を受け入れ難い、という部分が前提にあるのですがその事に加え、コミュニケーションを取らないといけない、ということにとてつもなく身構えてしまうのです。実際わたしの状態がどういうものなのかというと、その日が近づくにつれてどんどん気分は落ち込み、当日移動する車の中ではもう既に言葉も出てきません。ひたすら黙り込んでしまうほど緊張していて、パートナーが話しかけても「うん…。」「そうだね…。」というような最低限の返事しかできません。更に言えば、どうにかして無くならないか、わたしは体調を壊していないか(壊していたら参加しなくていい理由にできるから)、という逃げ出したい気持ちまであるほどなのです。これだけ言うと、本心では集まる人たちのことを嫌だと思ってるんじゃないかと、誤解されても仕方がないのかもしれません。ただ、それは本当に誤解だと、ここで言い切ることはできます。それがどうしてなのかと言うと
ASDのわたしにとって相手のことを思う感情の部分と、コミュニケーションを取るという対人関係の部分は繋がっていないからなのです。
相手のことは素直に好きで、会いたいとも思っている。だからこそ、気持ちと体があべこべになっているかのような感覚が自分でもとても辛いのです。頭の中で一生懸命体を操縦しようとしても、言うことを聞いてくれない、というような状態にあるんです。会いたい、でも逃げ出したい、そんな真逆の思考の中にいながら、まるでエネルギーを最大限に充電しているかのように黙り込み、その上強い緊張を感じたまま、約束のその場に入った途端、わたしは一変します。自分のアンテナを張り巡らせ、その場に集まった人たちが楽しく過ごせるよう努めるのです。いつもの何倍もおしゃべりになり、声も大き目、テンションも少し高め、なるべく気配りも忘れないように…まるで何かのおかしなスイッチが入ったかのような状態になります。確かにその姿だけを切り取って見れば、コミュニケーション能力が高いと言ってもらえるのかもしれませんが実は、大勢の中にいる時の多数派の人たちの振る舞いをやっとこさできるように習得した、というだけのものなのです。ただ、もちろん実際その場に行くと、その時間は楽しいと感じられるもので、決して我慢ばかりしているというものでもありません。そのような状況であるにも関わらず、どうしても無意識的に“いつもの自分ではいられなくなる、わざと無理をして振る舞ってしまう”という状態になってしまうのです。
本来のASDとはどういう人たちなのか
ASDとは何かを説明するとすれば
「臨機応変な対人関係が苦手で、自分の関心、やり方、ペースの維持を最優先させたいという本能的思考が強いこと」
本田秀夫『自閉症スペクトラム』(SBクリエイティブ)2013 p13
ということになります。対人関係が苦手で、コミュケーションが困難で、こだわりが強い、この部分を本質的に持っているのがASDの人たちです。だとしても、実は大人のASDの人たちの中には、「自分は人よりも気遣いが上手だ」そう思っている人がいたり、対人関係が苦手かと聞かれれば「そんなことはない」と答える人までいます。ただ、わたしを含めコミュニケーションにおいて、特に問題がないように見える人たちに共通しているものがあります。それが
すごく疲れやすい
というものです。ASDの人が普通の人とほとんど変わらないコミュニケーションをとる、その能力が高いとまで見られるのは、実はそのように人一倍頑張って振る舞っているからなのです。その背景には、これまでにそうせざるを得ない対人関係の場が多過ぎたが故に、身体に染み付いてしまっているのだと言えます。多数派の人たちにとって、特に気を使わなくていい楽しい人たちと飲み会をする、食事をするという場面では、その場のコミュニケーションがどうとかなんて考える必要性すらないと思います。というのもそれは、直感的にほとんど努力しなくてもできるようなことだからです。
ただ、ASDには相当な努力をしなければ獲得できないからこそ人一倍頑張るしかない、その姿を切り取って見てはコミュニケーション能力が高いと言われるのだと感じていますが、実際その前後はありえないほど疲弊していて、決して本質的に能力が高いとは言い切れないのです。
そもそもASDは、定型発達の人たちの中に当たり前にある、会話の中のグラデーションのようなものが、全くわかりません。この会話の流れで行くと、大体次はこういった話題になるだろう、と言うような非言語コミュニケーションというものが、自然体でいる自分には咄嗟に反応できません。だからこそ、周りを不愉快にさせない誰かを真似しながら、自分の自然を犠牲にしているんです。
それくらい頑張ってしまうからこそ、わたしの場合で言っても問題は約束の日の前だけではなく、その後も続きます。集まった人たちと別れたその直後から、それこそスイッチがOFFになったように、へとへとに疲れ切ってしまいます。更に次の日には起き上がることも難しいほど、もっとひどければ体調を壊してしまうほどなのです。ただそのことは誰のせいでもない、自然に楽しく振る舞っているようでそれは、コミュニケーションを無意識的に、自分ではないところで人一倍頑張りすぎてしまった結果なのです。本当の自分は対人関係が苦手で、多くの人たちとのコミュニケーションもそれほど上手くできない、その自覚やこれまでの失敗だと思わされるような経験があるからこそ、自然の自分では楽しめないのです。
社会的カモフラージュな人たちとは
一見、普通の人のようにコミュニケーションをとっていると見えるASDは、自分ではないところで必死に役を演じている、社会的カモフラージュをしている人たちです。
カモフラージュの状態だからこそ気づかれにくいことで、ASDが抱える問題を見過ごされたり、その時のしんどさを理解してもらえない、ということもあります。しかも本人自身も、他の人たちもそうなんだと、これくらい頑張っているしこれくらい疲れるものなんだと思っている場合も少なくありません。一人になったとき、自然の自分に戻った瞬間にはどっと疲れが押し寄せる、その疲れ方は尋常ではないけれど、これが普通なんだと思っている。実際、わたし自身もそうでした。ただ、そうではなく、ASDにとっては度合いが違うらしい、ということをわたしは随分と大人になってから知りました。
ただ、ASDであっても疲れないコミュニケーションというものも、もちろん存在します。それは親友との1対1の状況だったり、本当に付き合いの長い友人だと4〜5人でも問題がない場合もあります。ただ、その場にいるASDは、付き合いの浅い人たちの中で普通だと見られるようなコミュニケーションは取っていないと思います。例えば4〜5人の集まりの場だとするとASDの人は、ほぼほぼ黙っている、でも興味がある内容を誰かが話し始めた時にはちょっと参加する、終わればまた傍観するような状態にいる、ということが多いと思います。それでいてちゃんと楽しんでいるのです。
周囲の人が、そんな状態が自然なんだとそもそも受け入れてくれていて、それでも一緒にいてお互いに楽しめるという関係性だと、ASDの問題は問題でなくなり、本来の自分のままで楽しめるのです。疲れ切ることもありません。
そして実は1対1の状況の時には、逆にかなりおしゃべりになったりします。もちろん、ASDと親しい人というのは、おそらく同じような特性が少なからずある人だと思うので、会話があっちこっちに飛んだとしても、それが不自然ではないのです。ちゃんと成立します。一方的に話すぎることもなく、相手の話にも興味を持って聞くことができる、ただただ会話は弾み、自然な自分のままでいられるために、疲れることもなく、逆にその時間があってリフレッシュできることで、元気をもらえたりすることもあるほどなのです。
興味のない会話でもなるべく参加する、相槌もわかりやすく、そして相手の目を見て話す、でも見てばかりでも圧をかけすぎるからたまに逸らす、よくわからないけど、「他の人がこうやってるからこうしてみよう」的な振る舞いに全神経を集中させるだけの時間で終わらせなくてもよくなるからなのです。
わたしは今となっては、自分をカモフラージュさせなければいけないような場は、極力避けるようにはしていますが、それでも全く無くすことは難しいものです。ただ、そういった状況があった後には、ただ疲れ切って終わるだけではなく、よく頑張ったと自分を褒め、その時間そのものに達成感を加えてやろうと思えるようにはなりました。そして、体を休めることにも罪悪感を持たず、しっかりと休んでいいというルールまで作りました。というのも、他の人たちはそれほど疲れていない、ということすら知らなかったからこそ、休むということを自分に許していなかったからなのです。
ASDにとって社会的カモフラージュの状態でいなければいけない場面が、今の社会ではどちらかというと多く求められると思います。多数派の人たちが生きやすい社会に設計されているものだからこそ、脳の少数派の人たちへの社会的な考慮はされていないからです。だとしても自分がASDなんだと自覚ができた時点で、自分を犠牲にした擬態しなければいけない状況を、最小限に抑えることは可能だと思います。本当は誰にとっても自然に生きていける社会になるのが理想です。そうなっていけるように、少数派の人たちには特に、自然の自分で過ごせる時間を増やし、自分に合わない環境から発生してしまう二次的な問題を一つでも減らしていってほしいと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/を使用しています。
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