ASDは”単なるたとえ”がわかりにくい
不思議だった”大人の言葉”
わたしは子どもの頃に
(大人ってどうしてそんな変な事を言うんだろう…?)
そう思うことがありました。その中の一つに、わたしが小学生の頃の出来事を思い出しました。
その日は、熱があったのか体調が悪かったのか、早退することになり、母が学校まで迎えに来てくれた時のことです。急いで帰って寝かせないと、そう思ったのか、母がこう言いました。
「今日はお家まで真っ直ぐ帰ろうね。」
その言葉を聞いた途端、わたしは笑ながら
「お母さん、真っ直ぐってどうやって帰るの?すぐそこの家にぶつかるよ。」
そう言ったのを覚えています。確か母はその時に
「真っ直ぐって、その真っ直ぐっていう意味じゃないよ。どこもよらずに、急いで帰るって意味に決まってるでしょ。」
と教えてくれましたが、わたしにとっては
真っ直ぐは真っ直ぐ=直線という意味
だったので
(そんなよくわからないこと言わないで、急いで帰らないといけないなら、そう言えばいいのに…)
そう思ったことがありました。
実は、わたしのこの解釈の仕方は、ASDのことを知らべていく中で、全く同じような発言をしているASDの子どもたちがいることを知りました。その時は本当に
とても驚いたと共に、とても共感し、わたしは理解力が無いわけではなく、そもそもASDにはそういう理解の仕方が逆に普通なんだと、とても心がスッキリしました
ただ、当時の話のように、笑って済ませられることもあれば、言葉の内容によっては、深刻な状況になってしまうこともあるのです。
常に”字義通りの解釈”がASD
いろんな”例え話”もわかりにくい?
ASDの特性としてあるのが
その言葉の中に含まれた”他の意味がある”ということがわかりにくい
というところです。その言葉にある表面的な意味は、その通り真っ直ぐに、そのままの意味で受け取るのがASDなのです。
ですので、とても理解しにくいのが”たとえ話”なのです。その”たとえ話”の中には、先ほどの
真っ直ぐお家に帰る
というような表現のものから
説明される時に使われる「例えば…」
こういった、説明を他の表現に置き換えて話される内容も、説明の内容と例えの内容が一致しにくい時があります。それというのも
わたしの場合でも、説明をしてくれている時に、わかりにくそうな顔をしていたら、わたしのパートナーの方は
「あ、じゃあ例えばさ…。」
そうやって、よりわかりやすくと思い、たとえ話で説明してくれるのですが、もっとわからなくなってしまったりする時があるので、また一から説明してもらわないといけなくなってしまったりします。
ASDの子どもにとって”たとえ話”は”嘘”になる?
”冗談”や”からかい”は笑えない
ASDの子どもたちにとって、それが後で冗談だと言われたとしても逆に、どうしてそんなことを言うのかと、いつまでも相手に対して不信感を抱いてしまったりします。
わたしのASDの息子にも冗談はあまり通じません。今でこそ気を付けるようにしていますが、ASDのことをわたし自身もまだよくわかっていなかった頃のことです。
息子は突然”おじいちゃん”という言葉に何故かはまりだして、どんな言葉の中にも
「ママの鞄はおじいちゃんみたいだね。」
「その本はおじいちゃん。」
といってはくすくすと笑い、息子の世界で遊んでいる時期がありました。その時に、軽い冗談のつもりで
「そんなあなたも、おじいちゃんなんじゃない?。」
というような事を笑いながら言うと、息子から返ってくる返事はこうです。
「ぼくは、おじいちゃんなんかじゃないっ!。」
冗談だったとしても
それは冗談というものよりも先に、その言葉を字義通りに受け取り、反応してしまうのです
「本当にそう思っている訳ないでしょ」と言われても…
わたし自身も子どもの頃から、母にはよく
「どうして言葉通りに受け取るの?そんなこと、本当に思って言っている訳ないでしょ。」
そう言われては、呆れられたりしていたのですが、わたしとしては
「じゃあどうしてそんな嘘言うの?。」
と返していたのです。このことからも、わたしは子どもの頃からずっと
比喩的表現や、二重の意味が含まれているような言葉が理解できなかったのです
なので”単なるたとえ”で伝えられたものは”単なるたとえ”ではなく、その通りに受け取り、その後に誤解だと説明される、この一連の流れが多ければ多いほど
また嘘をつかれた…
そう解釈してしまっていました。
親が知っておくこととASDが知っておくこと
ASDのわたしや息子、そして他のASDの子どもたちにしても
”単なるたとえ”というものは理解が難しいのです
そのことを、ASDの子を持つ親はしっかりと理解して欲しいと思っています。その上で、会話の中で比喩的表現を使う場合には
- 単なるたとえだよ、と伝える
- なるべく相手が誤解しないような表現で伝える
- もし誤解してそうなら、その言葉の中にある意味を全て伝える
こういったことを繰り返しながら、世の中には”単なるたとえ”があるということを、親は伝えることをし、ASD側は”単なるたとえ”という表現がどこでどのように使われたりするのかを、ひとつづつインプットしていくことをしていくのです。
ASDにとって、”単なるたとえ”がわかりにくいのは、相手をわざといらつかせたり、理解しよとしていないわけでもありません。
ASDだけにある理解の仕方をしているだけなんです
このことを知っているだけでも、もし難しいと感じていたASDとのコミュニケーションがあったとしたら、ほんの少し形を変えれば上手くいくということも、出てくると思っています。
最後に
ASDではない方が、ASDとのコミュニケーションが難しいと感じる時というのは、それはどんな場面でも、ASD側に何かしらの問題があるわけではないと思っています。というのは
ASDにはASDのコミュニケーションの取り方があって
ASDにはASDの理解の仕方がある
というところがあるだけなんです。それが使えない時に、困るというだけだなんです。
逆にASDの中には、定型発達の方とのコミュニケーションを円滑にするために、いろんな場面でのコミュニケーションの仕方を学んだり、実践してみたりしている方もいます。このことからも言えるのは
ASDはマイノリティというだけで、才能や能力が無いわけでもないのです
多様性は、理解と知識があって受け入れられるものだと思っています。その為にも、一人でも多くの人に、ASDについて知ってもらえたらと思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*わたしが書いている内容は、ASD当事者であるわたし自身の経験が基です。発達障害は一人一人、特性は同じではありません。ですので、全てのASDやADHDの方にそうだとは言い切れませんので、その部分はご了承下さいませ。
*画像はhttps://unsplash.com/というFree素材を使用しています。
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